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大石田町新町発足四十五周年記念特別寄稿「茂吉と大石田」3

更新日:2016年3月25日

 その父の病だが、昭和二十一年三月十三日発熱、佐々木芳吉医師によって左湿性肋膜炎と診断された。九月に入り、病気は概ね治癒したが、その間、大石田の方がたの手厚い看護は忘れがたい。山形といえど敗戦後の食糧不足の時代に、ご自分達は糅飯(かてめし)を食べても茂吉には白米を食べさせて下さった方々。貴重な鯉料理を供して下さった方々。私はこの地を訪れるたびに、この町の方々の計り知れない善意に心うたれる。それは真綿のように軟かく暖かい。その真綿に包まれて、父は誰に遠慮することなく思いきり山形弁を喋り、人びとに甘えることができた。そういう背景の中で「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」「最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片」などの秀作といわれた歌が生まれた。

 父の患った肋膜炎は当時の特効薬はサリチル酸ソーダ、所謂ザル曹だった。山形にはどこを探してもザル曹はみつからないという便りが来た。そこで私は早速ザル曹の錠剤を携えて大石田の聴禽書屋に急いだ。大雪で二階から入った記憶がある。気候のきびしさを感じた。「東京中を探し歩いてやっと入手した誠に貴重きわまるザル曹」というふれ込みで、その薬は茂吉の口に入った。ところがそれまで頑固に下熱しなかった熱が下がり始め、一般状態もよくなり始めた。そのザル曹は私が軍隊から復員するときに「お土産」として、貰ってきたものだったのだ。私は心理的効果を狙って父にウソをついたのである。

 ところで私は父が大石田を離れて上京するとき、新庄発の急行に乗り、列車が大石田を通過するとき窓ガラスに顔を寄せて「大石田よ、さようなら」と言ったという話と同時に列車が新庄発で、板垣家子夫さんの息子さん達が先に列車に乗り込み、席を取っていたものと信じていた。

 大石田の生活は、茂吉の波瀾(はらん)の一生のうちで、極めて大きなウェイトを占めることを信じて疑わない。

(文 齋藤茂太)

齋藤茂太(さいとう しげた)1916-2006年

精神科医、随筆家。
齋藤病院理事長・名誉院長、日本精神病院協会名誉会長、
日本旅行作家協会会長、日本ペンクラブ理事などを務めた。

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山形県北村山郡大石田町緑町1番地
電話:0237-35-2111 ファックス:0237-35-2118

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