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大石田町
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おおいしだものがたり 第七話 都市計画されたまち大石田 最上義光(もがみよしあき)

更新日:2016年3月25日

1.関ヶ原の合戦と大石田

 今からちょうど400年前の慶長5年9月に、関ヶ原の合戦がありました。山形県内でも東軍(徳川方)の最上義光らと、西軍の上杉景勝らが各地で激闘を繰り広げました。

 大石田周辺では、上杉勢の東禅寺城(酒田城)の城将志田義秀の軍勢が最上川を舟でさかのぼりました。進軍の途上、最上郡を攻め取り、町内横山から上陸し、谷地をめざして進軍しました。その途中、町内田沢から富並(村山市)に抜ける山道で、最上勢の伏兵にあい、多くの兵が失われたと軍記に伝えられています。また、上杉勢が撤退するときも、横山から舟で下ったといわれています。

2.最上川舟運の拠点として注目された大石田

 関ヶ原における東軍の勝利により、翌年最上義光は、徳川家康から置賜を除く県内全域が領地として認められ、52万石の大名となりました。つまり、山形から酒田まで全域が領地となり、本格的な領内の交通整備が必要になってきたわけです。

 そこで、義光は、内陸から庄内を結ぶ交通ルート設定に際し、大石田に注目しました。義光は、村山地方の年貢米等の物資を酒田に運ぶ河岸(船着場)として大石田を「町立て」(都市計画された町)して整備し、大石田を最上川の中心的な河岸として位置づけました。これより先、義光は町内今宿地内の東山の岩石を切らせ、土生田から大石田に至る道路を整備し、物資の集散地としての機能を十分果たせるように整備を図ったといわれています。

3.都市計画された大石田

 大石田は、前回紹介したように、室町時代に井出館主大田氏により基礎的なまちづくりがおこなわれた、と伝えています。

 最上義光は、家臣である大乗内記に命じて大石田のまちづくりをすすめた、と伝えられています。その内容は、江戸時代後期に描かれた大石田河岸絵図から知ることができます。

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