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おおいしだものがたり 第百二十話 「最上川舟運の話」 その34.幕府の直差配と船方役所の配置(2)

更新日:2016年3月25日

幕府直差配の背景

2.大名所有の御手船までが、約束を破って商人荷物を運ぶようになる。

 大名所有の船を御手船という。御手船は本来自分の領国の廻米だけを川下げする約束で造船を認められてきたものである。それも商人たちが所有する町船の営業活動を阻害しない程度で許可を得てきた。それが、最近になって船世話役は、この御手船にも目をつけ、商人荷物を川下げさせるようになってきている。
 諸藩が御手船を造った船数(寛政3年以前)を見ると以下の通りである。

山形藩

 松平下房守(15万石) 万治3年(1660年) 10艘 大石田河岸預け
 奥平美作守(9万石」) 延宝9年(1681年) 10艘 大石田河岸預け
 堀田下総守(10万石) 貞亨2年(1685年) 10艘 大石田河岸預け
 堀田伊豆守(10万石) 元録14年(1701年) 10艘 大石田河岸預け

新庄藩

 戸沢氏(6万石) 享保8年(1723年) 25艘 清水河岸預け
 堀田相模守(10万石) 寛保2年(1742年) 8艘 大石田河岸預け

米沢藩

 上杉氏(15万石) 宝暦3年(1753年) 6艘 大石田河岸預け
 上杉氏(15万石) 天明8年(1788年) 10艘 大石田河岸預け
 上杉氏(15万石) 寛政3年(1791年) 10艘 大石田河岸預け

(東北芸工大編『最上川文化研究4』所収「羽州私領御手船の造立と大石田河岸」拙稿)

 このように、山形藩や米沢藩・新庄藩では御手船を造り、大石田河岸等に預け、その船を利用して、約束を破って密かに商人荷物を運ぶようになる。このことが町船の営業を圧迫し、営業不振から休船状態に追い込まれ、町船はどんどん減っていくという悪循環に陥る結果になる。

3.町船の減少が続き、城米(幕府の年貢米)の川下げにも支障をきたす

最上船(ひらた船)の数の変化を見てみよう。
5人乗(船頭1人+水主+乗組員4人)、4人乗、3人乗の合計船数によると
 元禄16年(1703年) 292艘 4人乗船に換算すると340艘
 享保6年(1721年) 190艘 4人乗船に換算すると176艘
 宝暦11年(1761年) 120艘 4人乗船に換算すると136艘
 天明の未年 110艘
 寛政年間 105艘 106艘
(上掲、東北芸工大編『最上川文化研究4』所収拙稿)

 さらに減船が続き、100艘を割り込み、90艘台に落ち込むまでになる。もはや幕府の年貢米の川下げにも事欠く状態になる。町船の減船が進めば、大名たちは自衛手段として御手船を造り城米や蔵米(大名の年貢米)の輸送にあたる。その御手船が約束を破って商人荷物の輸送にも手をつけるという悪循環に陥ってしまう。


寛政4年に設置された「大石田川船方役所」のあったところ

執筆者 小山 義雄氏

ひらたは舟編に帯

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