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おおいしだものがたり 第百三十四話 「最上川舟運の話」 その48.明治中・後期の最上川舟運

更新日:2016年3月25日

旅客・貨物輸送の「乗船常便社」が創立される

 明治14年(1878年)12月、山形・長崎・酒田・鶴岡の商人六人を発起人として設立された会社で、主に旅客輸送を主たる業務とした。しかし、上りの便は貨物の輸送を中心に業務を行った。
 長崎に本社を置き、山形・酒田・鶴岡に出張所を、谷地・大石田など最上川流域の主な河岸六ヶ所に取扱所を配置した。定期便は毎月12回、臨時便は客の望みに応じて随時に就航した。15人定員となっており、輸送事故などの際の危険弁償は、それ相当の割増運賃をとる「約定書」を交わして行われた。

酒田回漕問屋組合が開業する

 上り船による貨物輸送を目的に、明治24年(1888年)4月に開業された。事務所を酒田本町に置き、酒田から本合海・大石田・寺津・落合を運送区間とした。
 輸送船には、小鵜飼船150艘を見込んで行われた。輸送上の事故に対処するために、輸送荷物に保険制度を適用する近代的なもので、先駆的であった。
 会社と船頭が保険契約金を払い、その取扱は山形の長谷川銀行酒田支店が行った。
(『大石田町史・下巻』「明治後期の大石田」)

陸路の開削が進展する 陸路と水路の競合時代に入る

  • 明治13年 板谷峠に代る万世大路の開通
  • 同 15年 二口峠に代る関山新道の開通
  • 同 26年 軽井沢峠(銀山越え)に代る母袋街道の開通

 江戸・京阪地方から送られてくる汽船荷(仙台湾着の蒸気船の荷物)が、陸路の開削によって、それぞれの峠を越えて村山地域に流入し、最上川を逆輸送して下流域に下すという珍現象が起こるようになる。
 最上川の下し荷物(輸送品目の様変わり)
 ・えさば物・茶・茣蓙・畳表・麦・鉄・蜜柑・瀬戸物・唐物 外
 これらは、かつて酒田からの上せ荷の代表的な物であった。
 峠道の改修工事によって、荷車の通行が容易になり、陸路と水路の競合時代を迎える。さらに、陸路が整備され、仙台に鉄道が開通するようになると、仙台方面から、運送業者が400人、人力車が130台、馬車が200台も用いられ、一日一万貫の荷物と壱千人の旅行者が山形方面に流れ込んできたという。(『大石田町誌』所収「明治時代の最上川交通」)
 軽井沢峠に代って母袋街道が開通すると、峠の頂上にあった軽井沢集落の開所番人、荷物取扱人等12戸は小野田村に転住するなどして廃村となるなど、地域社会の変貌の要因ともなっていった(『尾花沢市史・下巻』)。


横山河岸から大石田方面を望む

執筆者 小山 義雄氏

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