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おおいしだものがたり 第百六十八話 出羽国俳諧の初期に現れた大石田の俳人

更新日:2016年3月25日

出羽国俳諧の初期に現れた大石田の俳人

 平安時代末のころ、和歌から句を連ねるあそび、つまり連歌が生まれて、南北朝期にその形式は定まるが、庶民文芸として俳諧はこの連歌から起こり、江戸初期に松永貞徳によって俳諧の作法(式目)が定められた。そして貞徳は俳諧の中心となり、その門流は繁栄し、俳諧は広まったのであった。
 俳諧は、まず十七世紀半ばのころには、京や伊勢中心に広まるが、つづく寛文期(一六六〇から一六七二)のころには、大阪・堺や、近畿に広まり、延宝期(一六七三から一六八〇)になると、江戸談林風俳諧が起こって、江戸を中心にした俳諧も広まる。
 このような推移のなかで、俳書の発刊も次々に行われ、寛文期には貞門俳人や著名俳人による俳諧集の編集発刊が盛んになり、それらの俳諧集には各地俳人の入集がみられるようになるが、俳諧が広まったとはいうものの、地方においては、ごく限られた上層社会の一部であったようである。
 出羽国といわれたこの地方の当時の俳諧の状況は、まさにそうした様相にあったとみられる。寛文期以前の俳諧集に入集した出羽の内陸地方(現村山・置賜・最上地域)の俳人は、山形五名、米沢二名という極少数で、いずれも山形藩、米沢藩の藩士である。
 次いで寛文期から、延宝二年(一六七四)までの間に発刊をみた俳書には、山形・米沢にほかに左沢・長崎・最上(山形村山地方)の地の俳人とともに大石田の俳人吉直(後川水)・広永の二名の入集を見る。このころの出羽の地の俳諧は、まだそれほどの広まりがなかったようで、名を連ねているのは殆ど武門に関わる俳人であったのである。
 貞門俳諧の後の談林風俳諧のころになって、尾花沢や大谷・谷地・天童・東根・漆山・上山などの各地の俳人が俳書に現れるようになり、分布の広まりを知るのである。つまり大石田の吉直・広永は、周辺の地の俳人に一歩先んじて現れていたのであった。
 大石田の俳人高桑吉直と井田広永の句が収載された俳諧集は、延宝二年(一六七四)発刊の「櫻川」という集であるが、この集には寛文五年(一六六五)より同十二年(一六七二)までの句が収載されていて、盤城平の城主内藤左京太夫号風虎の編による集である。
「櫻川」の編纂については、風虎の招請によって西山宗因が推挙した同門長老の松山玖也が携わり、すすめられた。
 玖也は、寛文八年(一六六八)四月十九日、出羽路の旅に出て、関山峠越えで出羽に入り大石田に一泊した。そのときの紀行文「松山坊秀句」を著しているが、その文中に
 「大石田に一宿 雨しきりに降けれハ 所からや 大したゝりて 夏の雨」
などの句を残し、舟で下って酒田に至り、象潟を訪ね、酒田に戻り、狩川を通って、羽黒山を詣で清川より清水に至り陸路を尾花沢にでて、六田・天童・山寺を通り、山形から笹谷越えで仙台に至るという同月三十日にわたる旅をした。
 このような旅をした玖也の携わった「櫻川」には

鏡餅
 かゝ見もちやけさの日よミの神姿 大石田住 吉直
郭公
 羽州最上から松と云所にてきかさぬかけさから松にほととぎす 最上住 吉直

 羽州延沢にてのべ沢にふりつむ雪やもがみ綿 井田広永
大石田住吉直二句、井田広永一句が収載されている。

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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