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大石田町
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おおいしだものがたり 第百六十九話 出羽国俳諧の初期に現れた大石田の俳人 下

更新日:2016年3月25日

出羽国俳諧の初期に現れた大石田の俳人 下

 桑吉直(川水と号する)は、大庄屋である三代金蔵惣左衛門重好を継いで四代金蔵を名乗り大石田村庄屋を勤めていて「櫻川」入集句を詠んだのは寛文八年(一六六八年)のころと見られるが、そうであれば吉直二十五歳のときで、おそらくその俳諧は、山形藩家臣などとの交流のなかでのものと推考するのである。
 井田広永の句には「羽州のべ沢にて」と詞書があるので、広永は父とともに延沢に来たが、寛文八年ごろ大石田に移住したのではと考えられる。このことについては、伊勢地方俳人の収載のある俳諧集に「伊勢国山田住」や「伊勢坂東屋広永」というように、当該地方の俳諧集には早くよりその名が見られていたのである。
 広永こと井田四郎右衛門の父は、寛文九年に没し、大石田の乘舩寺に葬られていて、井田四郎右衛門も延宝八年(一六八〇年)に没したが、やはり、乘舩寺に葬られ眠っている。つまり、井田父子は、寛文九年の以前より大石田に居住していたのではと推考するのである。
 「櫻川」に入集した句は、いずれも縁語・懸語など貞門俳諧を踏んでいる句である。既に伊勢の地で俳諧の道を歩んでいた広永はともかく、吉直は、この地方では早くより俳諧を嗜んだ言わば地方俳諧の先駆者であったと言えよう。
 「櫻川」が発刊された延宝二年(一六七四年)のおよそ十五年後の元禄二年(一六八九年)に、芭蕉がみちのくの旅で、出羽に訪れるのであるが、このとき大石田の俳人高桑川水(吉直後金蔵加助)と高野一栄(平右衛門)は、芭蕉を迎えて蕉風俳諧の教えを乞い、歌仙「さみだれを」の一巻を成した。芭蕉は、自ら筆を執って、蕉風俳諧の伝えまでにと、この一巻を書き残したのである。
 当時、貞門・談林の言語遊戯的俳諧が、俳壇を覆い占めていたころ、大石田の俳人は、にほい、ひびき、などの桟微に迫り、わび、さび、しおりというような感動の境地を求め表現する蕉風の俳諧を学び歩もうとしたのであった。
 そして教えを受けた後の俳諧は、以前の貞門・談林の俳風から蕉風調の俳諧に変わっている。このことは『奥の細道をたどる』(井本農一著)に元禄五年(一六九二年)刊の不玉撰になる『継尾集』に収載された一栄と川水の句を取り上げて「蕉風調に変わって来ている」と述べていることにも知ることができるのである。
 このように、この地方の先駆者的俳人として存在した大石田の俳人は、後世に高く評価される蕉風俳諧の道に歩みをすすめたのであった。そしてこれは、大石田の俳諧を語る上で永く伝えられることだろうと思うのである。

参考資料
 「大石田町立歴史民俗資料館史料集第八集」
 「山形県内の貞門・談林・元禄俳人について」関淳一

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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