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おおいしだものがたり 第百八十二話 おおいしだ記憶遺産4 次年子白山神社の組合記念碑

更新日:2016年3月25日

 そろそろ大石田町でも新そばの季節です。現在、そばで有名な次年子地区ですが、以前は箕作りで有名な村でした。次年子地区は山野に囲まれ、耕地が少なく、昔から箕を作り生計を助けていました。
 箕は、穀物や豆と殻やごみなどをふるい分けたり、枡や俵に穀物を移す道具として昔から農業に必須のものでした。次年子の箕は、品質がよく、県内のほか東北各地、新潟地方にも広く行商で売りに歩き、重宝されていました。また、箕作りを次年子に教えたとされる「お里さま」の伝承も伝えられています。
次年子地区では、「長男以外には箕作りを教えてはならない」と言われており、箕作りの技術を村外不出として代々守ってきており、実際に慶応3年(1867年)の掟状に「他村へ婿養子に行っても箕作りをしてはならない」と堅く取り決めた村全世帯の連判状も残されています(『大石田町史史料編6』海藤六右衛門文書)。
 江戸時代は、幕府の御林以外は山野を巡り、材料を集めるのは自由でしたが、明治になると国有林が定められ、今までのような自由採取は不可能となり、材料を集めるのにたいへん苦労していました。そこで、箕作りの材量確保のため、大正8年(1919年)産業組合を創設します。産業組合創設には、楯岡営林署長金子貞次郎・舟形営林署長木谷重栄の好意と、森五平・海藤民次郎の尽力があり、このおかげで国有林の払い下げに成功します。
 このときの組合創設の経緯を碑に刻み、次年子白山神社境内に立て顕彰碑としています(写真)。この顕彰碑の全文を書き出したのが以下の文章です。

 「組合記念碑 北村山郡亀井田村次年子の地たる山間に僻在して耕地に乏しく、古来箕を作りて生計を助く。然るに時代の推移と生産の増加とは、漸(ようや)く(次第に)材料に窮し、斯(この)業の前途憂ふべきものあり。適々(たまたま)(丁度よく)楯岡営林署長金子貞次氏、舟形営林署長木谷重栄氏これを見るに忍びず。組合を組織し、国有林の払下を勤奨せらるために、森五平、海藤民次郎両氏の奮起となり百方画策、遂に有限責任次年子信用購買販売組合を創設す。恰(あたか)も大正八年八月なり。以来国有林壱千余町歩の払下を受け、資材足り、産額倍し、全部落復び生業に安ずるに至れり。これ全く金子・木谷両署長の厚意と森・海藤両氏の熱誠とに外ならず。ここに記念碑を建て、その功績を永世に伝へんとす。 昭和五年九月建之有限責任次年子信用購買販売組合 勲八等加藤伝治書」


(写真)白山神社境内の組合記念碑

 組合では、箕の必要材料量を聞きまとめ、産出する山々に出向き、どの山に箕何枚分の材料があるかを調べ、各営林署に必要材料量の払い下げの許可をとります。この時創設された産業組合は、戦時中一時改組されましたが戦後復活し、現在まで継続しております。
 昭和30年代が箕作りの最盛期でした。年間3万枚の生産があり、それでも供給が追い付かなかったといわれています。その後急速に、農業が機械化されて行き、それに合わせ箕作りも縮小していきます。現在では箕の制作者も1人となってしまいました。

執筆者 歴史民俗資料館 海藤

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