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おおいしだものがたり 第八十八話 「最上川舟運の話」 その2.蝦夷征伐と最上川

更新日:2016年3月25日

1.山越えの難行路 蝦夷征伐

 蝦夷とは古代のとくに東北地方にあって、朝廷に服従しなかった人々を蔑称してさします。朝廷は蝦夷を征伐するために征夷大将軍を任命し、東北地方に差し向けます。中でも有名な将軍が大野東人(おおのあずまんど)や坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。
 天平9年(739年)、大野東人が関東方面の各地から派遣された騎兵196人、鎮兵499人、軍団兵5,000人、帰順蝦夷(降伏した蝦夷)249人を率いて蝦夷征伐に乗り出します。『北村山郡史上巻』
 太平洋側と日本海側に軍事拠点(柵)を設け、お互いに連携をとりながら北進し、征服していきます。大野東人軍は、雄勝の蝦夷を征伐しようと宮城の多賀城を発し、色麻柵から銀山を越え、出羽国の大室駅(尾花沢市玉野が有力)に駐屯します。ここで出羽守田辺難波(たなべのなにわ)の協力を得て、さらに出羽軍団兵500人、帰順蝦夷240人を加え、秋田を目指し、蝦夷征伐のため北進して行きます。
 このとき行軍した道程は、野を越え山を越える陸路でした。当時、出羽山道駅路といって六箇所に軍隊のための陸の駅が設けられていました。それが、玉野・避翼(さるはね)平戈(ひらほこ・金山町有屋が有力)・横川・雄勝・助河の六駅家でした。

2.元慶の乱(878年)制圧 最上川も利用か

 朝廷が任命した出羽国司など地方長官たちの行う圧政に耐えかねた蝦夷の民衆が、秋田城を焼討ちする大反乱を起こします。鎮圧に当たった陸奥・出羽の連合軍5,000人あまりが敗北するありさまでした。
 このことを知らされた朝廷は、藤原保則(ふじわらのやすのり)を出羽権守(ごんす)、小野春風を鎮守府将軍として蝦夷に派遣します。このとき投入された東国の兵士は夥しい数にのぼりました。藤原保則が朝廷に差し上げた「上奏文(じょうそうぶん)」に記された内容です。

「最上郡、道路険絶、大河流急、中国の軍、路必ず此を経る」
『山形県の歴史』

 中央や地方から派遣されて、蝦夷地に向かった兵士たちは、険阻な山道も通ったし、急流な大河最上川も下ったと解されています。山の道からやがて川の道へと移行するようになります。

執筆者 小山 義雄氏

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