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おおいしだものがたり 第九十話 「最上川舟運の話」 その4.「物語・伝説」にみる中世の舟運

更新日:2016年3月25日

古代とは、奈良・平安時代を指すのと同じように、中世も、時代区分の一つで、鎌倉・室町時代(12世紀から16世紀)を指します。この時代の最上川舟運の様子は空白の歴史とされ、はっきりとした実態は分かりません。しかし、多少の文献とか、伝承・伝説などで想像される程度です。

1.「義経主従が最上川を舟で遡った」とされる物語(『義経記』より)

 源義経の一代記で、作者は不詳です。室町初期から中期頃に著わされたものとされ、8巻からなる軍記物語です。義経、静御前、弁慶などの活躍が主要部分を占め、史実に伝説を交わえた構成になっています。義経主従が都を逃れ、北国落ちをしたのは文治3年(1187年)のことです。兄頼朝に追われ、平泉に落ちる途中の義経主従が最上川下流部の清川から中流部の本合海までの最上峡を舟で遡ったことが記されています。このことは、最上川の峡谷である清川・本合海の間には、共に古くから栄えた川湊から推して、旅人や荷物を運ぶための舟運が開かれていたのではないかと想像されます。

2.「順徳上皇(じゅんとくじょうこう)、最上川を遡り、深堀に上陸した」という伝説

 順徳上皇は、後鳥羽(ごとば)天皇の皇子で、兄土御門(つちみかど)天皇の後を継ぎ、84代の天皇に即位します。承久3年(1221年)、父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の横暴なる振る舞いを阻止し、再び朝廷中心の政権を取り戻すために挙兵を企て乱を起こします。いわゆる朝廷対幕府の争い「承久の乱」です。順徳天皇は仲恭天皇に譲位し、父と共に倒幕に参戦したが、朝廷側が大敗し、鎮圧されます。首謀者後鳥羽上皇は隠岐(おき)島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡島へ流罪(るざい)となり、仁治2年(1242年)、46歳で崩御(ほうぎょ)されたといいます。
 ところが、大石田には順徳上皇は佐渡島から密かに逃れてきたとする伝説があります。この話は、豊田の御前神社(堂主芳賀万吉家、現当主清氏)に代々伝承されてきたものです。先代豊太郎氏が書き残したものの大要をまとめると以下のようです。
 出羽国小田島庄(東根)に住む豪族、阿部孫一の次男に、文武に優れた阿部常次郎頼時(よりとき)という人物がおります。頼時は、上皇が佐渡に流されたことを知り、身の危険も顧みず、日本海に船出して佐渡へ渡り、島から上皇を救い出すと、酒田湊を目指して最上川河口にたどり着きます。そこからさらに、最上川を遡り、大石田の深堀に上陸したというのです。その上陸したとされる地点には「御前清水」があり、一時仮の宮居とされた跡には「御前神社」が祀られ、地域の人々の信仰をあつめています。
 さらに、共に幕府に背き、上皇と強い信頼関係にある初代寒河江城主大江親広(ちかひろ)のことを知った阿部頼時は早速大江城主を尋ねますが、時既に遅く親広は他界してこの世にはいませんでした。やむなく、頼時は丹生川を上らせ、船形山山中に上皇をかくまい、そこに御所を構え住まわせたといいます。
 話は伝説ですから一概に信じ難いのですが、佐渡から酒田までの海運、酒田から深堀までの舟運については、その時代の様相を示唆しているとも思われます。


順徳上皇が上陸したとされる地点 (深堀・写真左岸)

執筆者 小山 義雄氏

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