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おおいしだものがたり 第九十三話 「最上川舟運の話」 その7.船荷の中継河岸

更新日:2016年3月25日

1.中継河岸 清水

 「最上川の荷物は清水迄積み登ぼし、そこから上流の村山郡へは、清水船をもって運送致し候ゆえ、清水は慶長19年まで上下の船継場となっていました。」(『最上川と舟運』「最上川運送舟継由来之事」誉田慶恩)とあります。
 慶長19年(1614年)とは、徳川二代将軍秀忠の代に当たります。
 酒田より上ってきた荷物は清水河岸で一旦降ろし、清水船に積み替えて上流に上すというのです。清水はかつて最上川舟運の中核河岸の役割を果たしてきました。
 これは、山形城主斯波氏の一族満久が、文明8年(1476年)清水に初代の城主として入部し、以来、清水家歴代の城主は宗本家最上氏の最上川整備計画に呼応して、舟運の開拓に力を注いできました。そして、7代大蔵大輔(最上義光の3男義親)のときに最上川舟運の中継権を手中に収めたとされています。


最上川近くの清水城址

2.中継河岸 大石田に移る

 「慶長19年、山形の城主もが身出羽守(家親)、不意に軍勢をもって攻め寄せ、清水大蔵大輔(義親)を滅亡させ、出羽守の御領地としました。その時、出羽守が清水船中継を指し止め、大石田まで乗り通しを命じられました。」(上渇史料)、即ち、最上義光の跡を継いだ家親が大石田に中継河岸を移したとする説です。
 最上氏とすれば、清水河岸は領国の北部に偏っていて、領国の経済統制にとっては適地ではない。これに対し、大石田は三難所のすぐ下に位置し、山形に近く、村山盆地の物産を移出する地点としては好適地であると判断したものと思われます。
 これとは別の説もあります。元和8年(1622年)、山形城主最上家が御家騒動が原因で江戸幕府から取り潰しになります。その跡に、山形には鳥居忠政、新庄には戸沢政盛が入ってきて、それぞれの領主となります。寛永3年(1626年)、鳥居と戸沢の両者が話し合って、清水がもっていた船継権を10年間の期限で大石田に貸すことに決めたとする説です。ともあれ、清水河岸で止められていた酒田船は直接大石田まで登ることができるようになります。

3.清水河岸への代償措置として、運賃の10分の1の役銀の徴収権を

 清水は、上下の舟継ぎ場となり、慶長19年まで最上川舟運の主役を演じてきましたが、その地位を失うことになります。船の中継権を大石田河岸に移譲する代償として、最上川を上下する船から取り扱う荷物の運賃の10分の1の役銀(税金)を徴収する権利を与えられました。

執筆者 小山 義雄氏

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