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おおいしだものがたり 第九十六話 「最上川舟運の話」 その10.最上川の開削2

更新日:2016年3月25日

大石田船方惣代須藤久太郎、三難所を自普請で開削する

 三難所の内、とりわけ隼の瀬は難場であり、洪水など事ある度に押し埋まり、その都度、瀬を浚わなければ通船できなくなります。先年、山形船町の荷問屋阿部孫市が自力で隼の瀬を大普請したばかりのところ、文久3年、土砂が押し寄せ、洪水にやられ不通になります。
 三難所の監督支配は寒河江代官が司っています。当時の代官は新見蠖蔵(にいみかくぞう)でした。新見代官はその普請を大石田船方惣代の須藤久太郎に要請します。久太郎は要請を受けて自普請(経費など一切を自分で負担)で工事を行うことになります。
 工事内容は、隼の獅子岩(ししいわ)・蟇岩(びっきいわ)の岩石を切り払い、掘り割り工事をして新規の船路を開削することでありました。急流の難場にもかかわらず工事を完成させています。
 その功績が認められ、松平備中守(まつだいらびっちゅうのかみ)の命を受け、寒河江代官三宅鑑作(みやけかんさく)代官より褒美として銀五枚下賜され、さらに、三宅代官在任中の期間「船方取締役」を拝命されています。
(『北村山郡史下巻』所収 神部サダ子氏所蔵文書「申送書写」より大略したもの)


最上川三難所の1つ・隼の瀬(村山市)

須藤久太郎家の略歴

 須藤家は西郷村の名取に居住し、延宝年鑑(1670年代)には須藤弥左衛門を名乗っていました。須藤家の内の1人、初代久太郎が故あって大石田に移住したのは延享2年(1745年)以前でした。亡くなったのは寛政11年(1799年)、76歳の時です。三代久太郎が没したのは天保13年(1842年)でした。そこで過去帳は終わっています。
(「須藤弥左衛門家過去帳」草刈二氏所蔵)
 大石田は、尾花沢と共に参勤交代で諸大名が通行し、休泊する宿駅でありました。須藤家はその諸大名の通行を支える中心的役割を果たす人馬問屋役を勤めていました。そして、文化10年(1813年)以降、二藤部兵三郎家(カクニ)の後を継いで、本町(現草刈新聞店の東隣近辺)に居を構える須藤家が「本陣」を勤め、文政13年(1826年)には改装も新たに新本陣を構えるなど当時大石田第一級の家柄に台頭していきます。本陣とは諸大名が休泊する特別な宿のことです。(『大石田町立歴史民俗資料館史料集9』)
 その後、天保7年(1836年)、大石田河岸荷問屋(荷宿)仲間を結成した32軒の中の1軒にも加わり、嘉永2年(1849年)には、更に頭角をあらわし大石田船方惣代として、最上川舟運の中核として活躍する人です。

執筆者 小山 義雄氏

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