天明5年(1768年)から安永7年(1778年)の10年間
横山村の(大内)勘兵衛・甚助親子が最上船の請負差配役となる
勘兵衛親子が請負入札した金額(幕府へ上納する冥加金)は、年間金202両2分という大金であった。この大金を儲けるために次の二項目の権限が与えられていた。
この差配料1.と十分一徴収金2.をもって幕府へ上納する冥加金をまかなった。
(『大石田町史史料集2』「年限請負差配之砌船方仕法」)
船世話役、横山村の勘次郎、寺津村の吉左衛門、楯西村の善蔵、大石田四日町の又左衛門の四人が最上川通船46艘の船持と75人の船頭(21か村)から訴えられる。
訴えの理由は、寛政2年(1790年)、上記の4人が、川船差配役及び酒田湊船の船持や船頭と結託して、最上川通りの上郷船46艘が川下げすべき商荷を酒田船へ横流しして、半額の運賃で積み下げさせた。本来、上せ荷は上郷船の戻り船に、下し荷は酒田船の戻り船には双方とも積んではならないという片運送のきまりなのに、このきまりを破って以下の不正を働いたという理由によるものである。
これらの不正によって、最上川通船90艘余の船持や船頭に多大の困窮を与えたとして訴えられたものである。訴えを起こした総代訴訟人は、
船持代表 大石田町本町 安太郎
船頭代表 大石田町本町 重助
(横山昭男「幕府直営大石田川船役所の設置とその背景」)
訴訟相手の船世話役、勘次郎、吉左衛門、善蔵、又左衛門はいずれも宝暦10年以降度々川船差配役も勤めた有力商人である。
横山村の勘兵衛家は、最上川沿い居宅を構え、村きっての船持の有力商人である。また、楯西村の善蔵は手船13艘を所持し、天明7年、米沢藩屋代郷の江戸・大坂廻米を仙台領荒浜河岸(阿武隈川)を変更して、酒田湊出しに港替えをしたときの有力な請負商人であった。
大石田町四日町の(沼沢)又左衛門は、元禄頃から幕府巡見使及び諸大名の仮本陣となり、大石田問屋総代を勤めた特権的な有力商人であった。
執筆者 小山 義雄氏
組織名(略称):総務課 総務グループ
住所:〒999-4112 山形県北村山郡大石田町緑町1番地
電話番号:0237-35-2111
FAX番号:0237-35-2118
リンク(1):mailto:somu@town.oishida.yamagata.jp