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おおいしだものがたり 第三十二話 大石田の俳諧史を物語る西光寺の3碑について

 江戸時代に大石田では、俳諧(当時の俳句は「俳諧連句」として行われ、後に発句が独立して俳句となりました)が盛んに行われました。今から300年以上前、松尾芭蕉が大石田に来町した元禄期、それから100年ほど経った明和・安永期、そして幕末期の3つの時期に特に盛んに行われました。
 このような大石田の俳諧史を端的に物語る文化財が、四日町の西光寺境内にある3基の句碑です。今回は、この句碑を紹介します。

1.西光寺の芭蕉の句碑(町指定有形文化財)

 碑高100.4センチメートルの自然石の句碑です。碑面に「さみたれを あつめてすゝし もかミ川 芭蕉」と陰刻されています。松尾芭蕉が来町してからおよそ80年後の明和年間に、土地の俳人土屋只狂が歌仙「さみだれを」を得た喜びを記念して建てた句碑という伝えがあり、歌仙の発句を模刻したものです。

2.西光寺の李兮の句碑(町指定有形文化財)

 碑高83.0センチメートルの自然石の句碑です。碑面に「吹るゝや 骨となっても 枯尾華 田李桂兮」と陰刻されています。「田李兮」とは田中李兮のことで、土屋只狂を中心とする市馬窓社中の優れた俳人でしたが、若くして亡くなったと伝えられています。この碑は、李兮の1周忌にあたる天明5年(1785年)9月に岡村好和の発意により暁花園社中によって建てられました。

3.西光寺の暁花園の碑(町指定有形文化財)

 碑高78.0センチメートルの自然石の碑です。碑面に「暁花園」と陰刻され、碑陰に「夜着重し 桜や咲ん 雨の音」と陰刻されています。「暁花園」とは、土屋只狂を中心とする俳諧の結社名で、市馬窓社中」とも称しています。碑陰の句は、土屋只狂の晩年の句で、只狂が没した寛政元年(1789年)に暁花園社中が陰刻したものです。


西光寺の3碑

(向かって左から「西光寺の李兮の句碑」、「西光寺の芭蕉の句碑(新碑)」、「西光寺の暁花園の碑」)

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