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おおいしだものがたり 第九十七話 「最上川舟運の話」 その11.河岸の街づくり

1.河岸にふさわしい街をつくる

 山形城主最上義光は、慶長5年(1600年)、関が原の合戦で徳川方に味方します。戦勝の褒美として翌年の慶長6年、村山・最上・庄内に加え秋田仙北を含む57万石の領土が安堵(あんど)(承認)され、全国屈指の大大名にのし上がっていきます。
 自国の領国支配や経営のために、物資の流通、人物や兵士の移動など最上川を大動脈としての役割を果たす上で重要であることに着目します。最上川の線路開削・改修や河岸としての船着場の整備に取り組んだことは前述の通りです。
 天正8年(1580年)「最上義光は、大石田と中野船町を舟の往還のために、村立てをした」(『北村山郡史上巻』所収 天童高擶、願行寺文書)とあります。
 ここでいう「村立て」とは、河岸場にふさわしく、計画的に街をつくる、あるいはつくり直すことを意味しています。

 最上義光は、最上川最大の中継河岸としての街立てをし、大石田川港町をつくるために重要な役割を果たしてくれた人物と言えます。

2.大石田河岸に通じる街道を整備する

 最上義光はさらに、大石田河岸に通じる道路の整備にも着手しています。
 「同時に中仙道の街道に橡生田(とちうだ)町を割り出す。今宿村の川縁の山の岩石を切らせ、橡生田から大石田村への道路を開く。世間ではこの道を「ヘグリ」と言っている。今日、酒田より船が上下するのは、義光公の賢巧の徳なり」『上掲願行寺文書』。
 山形方面から運ばれてくる物資輸送のための陸路の整備として土生田村を起こします。さらに、土生田から追分けを通り、大石田河岸に通じるヘグリ道を開き、連絡道路をつくったとあります。
 それ以前も、今宿山を越える古道はありました。今も「佐竹街道の古道」としてその道の一部を辿ることができます。
 船道の開削、河岸町の造成、河岸場の整備とそれに通じるアクセス道路の開発をセットにした最上義光の大開発構想の姿が見えてきます。そして、最上義光の時代を大きな契機として最上川舟運は画期的に発展していくことになります。


来迎寺から見た「ヘグリ」(写真左手が今宿)

執筆者 小山 義雄氏

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