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おおいしだものがたり 第八話 西回り行路の起点・大石田 川村瑞賢父子の来町と西回り航路の整備

更新日:2016年3月25日

 銀山では、衣食住すべてが他所からの購入によって賄われていたため、1万人以上の大消費地(現在の大石田町の人口に匹敵する以上)の需要を満たす物資は、莫大なものとなります。当時、銀山の坑夫たちは交替制で24時間休みなく掘続けていたといわれ、米の消費だけでも山形県の村山地方の年貢米のほとんどが銀山に運ばれたと、伝えられています。ましてや、その他の食料品や衣類、生活用品に至っては殆どといっていいほど江戸や上方からもたらされたものだったようです。その大半の物資の集散地が大石田でした。

3.川村瑞賢父子の来町と西回り航路の整備

 寛文12年(1672年)4月6日、川村瑞賢親子が、総勢54人、「乗物二丁、挟箱四ツ、乗掛六駄・懸荷五駄、長持二竿、小姓三人」(「大石田惣町覚書」より)で、大石田に来町しました。瑞賢父子は、大石田に着くや否や村山地方の幕府領の年貢米の輸送実態と大石田河岸での運賃等を詳細に調査し、翌4月7日酒田に向け、舟3艘で大石田から下って行きました。酒田では、約1カ月かけて、最上川舟運制度と酒田での幕府領年貢米の保管状況、海船での江戸までの回送実態等を具体的に調査したと伝えられています。

 瑞賢父子の大石田来町の目的は、村山地方の幕府領年貢米を安全に江戸へ回送するためのルート調査(整備)でした。その結果、瑞賢の「西回り航路」の開発・整備により、村山地方の幕府領年貢米輸送の起点・機軸として大石田河岸が位置づけられ、商人荷物の増大と相俟って大いに賑わいました。


航海安全を祈願した舟絵馬(小菅 熊野神社)

(文章 大石田町立歴史民俗資料館)

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