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おおいしだものがたり 第百三十話 「最上川舟運の話」 その44.戊辰戦争と最上川(1)

更新日:2016年3月25日

官軍幹部・仙台藩士が、大石田の旅館笹原忠兵衛宅に止宿し、作戦を練る 「最上川船の運行を一時停止すること」を命ずる

 慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が始まる。
 戊辰の戦火は東北の各地にまで及んだ。主戦場が会津討伐から庄内征伐に移ると、村山地域も戦場となる。それにともなって、否応なしに大石田や最上川も戦争と深く係わって来るようになる。
 同3月23日、仙台に到着した九条道孝鎮撫府総督は、庄内攻略のため最上川の舟運に目を付ける。早速4月4日に総督は鎮撫府の軍務執事とその護衛に当たる仙台藩士10人を大石田に遣わし、河岸役人に次の命令を出す。
 「この節、何事によらず、荷物など一切川下げを差し止めること(中略)。見当たり次第、川船の運行を停止させること(後略。」
 四月四日 官軍 軍務執事
 羽州村山郡之内 最上河岸場最寄村々役人中
 (『北村山郡史 下巻』692ページ)
 この命令は、庄内軍が最上川船を利用して活発jに動きまわることを警戒して発せられたものである。命令を受けた尾花沢代官所の役人伊達長三郎は、急遽大石田に赴き、船持衆を集め、12班に編成し、毎日順番に河岸の見張りをすることを義務付けさせる。
 この時の官軍幹部及び仙台藩士一行の止宿先は本町の笹原忠兵衛宅であった。

官軍参謀、大石田船方惣代須藤久太郎宅に止宿し、作戦を練る「最上川筋大小の船、残らず清水河岸まで川下げをすること」を命づる

 閏4月23日、東北地方26藩の藩主による奥羽列藩同盟が結成され、庄内藩を守るため一致結束して官軍(長州)、藤田伝弥(弘前)外一名を大石田に遣わし、閏4月28日付けをもって、次の命令を出している。この時、大石田に居留していた船は下記の通りであった。
 最上船(5人乗) 49艘 最上船(4人乗) 2艘 米沢御手船 12艘
 柏倉御手船 9艘 酒田船 34艘 その外小船(3人乗)
(『北村山郡史 下巻』719ページ)
 これは、奥羽列藩同盟の連合軍が最上川船を利用して、官軍陣営が本拠陣営を構える新庄に攻め込むことを強く警戒してとった策である。
 この時、官軍参謀の止宿先は、大石田船方総代である本町須藤久太郎宅であった。


黒滝より大石田河岸を望む

執筆者 小山 義雄氏

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