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おおいしだものがたり 第三十四話 江戸時代大石田にあった上・下水道について

更新日:2016年3月25日

 江戸時代の元治2年(1865年)に写した大石田本町付近の「水井戸(みずいど)絵図」(戸田隆助氏所蔵)と記された絵図の一部が保存されています。
 これは、今日でいうと、上水道の図面です。大石田河岸は、最上義光の時代に都市計画されて河岸場及び宅地が拡充したため、最上川岸に近い屋敷地では井戸水の水質が悪く、飲用に適さない場所がありました。そこで、飲料水を確保するため乘舩寺(じょうせんじ)や浄願寺などの高台「段丘崖(だんきゅうがい)」から地下に水道(当時は「木管」と呼ばれ、木や竹の管を使用)を作って引いてくるなど、江戸時代から大石田は上水道の発達したところです。
 元治2年の絵図面は、実際には江戸中期の安永9年(1780年)の水井戸普請の図で、棟梁は石田久四郎、樋屋(といや)として阿部六兵衛、大工は有路文七らが従事していました。この絵図によれば、浄願寺脇の「大元井戸」から地下のところどころに枡(ます)を設置し、道路の下には松樋を、屋敷地の下には竹樋を通して、飲料水を供給する工事であったことがわかります。また、この絵図には、大石田では安永9年より38年前の寛保2年(1742年)には、すでに水井戸があったことも記されており、大石田では間違いなく江戸時代から水道があったことがわかります。
 加えて、明治32年(1899年)の「水道調書大石田飲用水明細図」(草刈二氏所蔵)によると、当時、地下に水道を設けていたのは、新町・本町・東町の範囲で、大石田河岸の集落全体に延びているものではありませんでした。その理由の一つとして、水源地が乘舩寺や浄願寺方面だったので、この方面から、比較的容易に水が供給できる範囲に限られていたためと考えられています。このことから江戸時代の水井戸の範囲も同様であったと推定されます。
 一方、この絵図面には道路脇に「表ノせき」(下方)や「裏ノせき」(上方)も描かれています。これを下水道(もちろん用水堰としての機能もある)と見ると、大石田では、どの範囲までかは不明ですが、その当時、すでに上下水道が設置されていたことになり、きわめて興味深い内容がある史料です。

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