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おおいしだものがたり 第三十五話 村名改称から130年 深堀村から豊田村へ

更新日:2016年3月25日

1.明治初期に山形県が村名改称

 明治政府は、明治4年に廃藩置県を実施しました。その翌年に山形県管轄となった地域は高畠から最上郡全域まで475ヶ村で、そのうち349ヶ村が現在の村山地域にありました。ところが、県庁では村山郡内に同名の村々が50ヶ村以上もあるため行政上不都合が生じました。それまで村山郡内では、幕府直轄領(天領)や大名領・寺社朱印地など領地が分散しており、しかも領主が郡内各所に代官所を設けて支配していたため、同じ村名によって混乱することはほとんどありませんでした。
 そこで、今年2月28日でちょうど130年前となる明治6年2月28日付け山形県参事(小さな県では知事を「参事」と称した)関口隆吉名で、村山郡内39ヶ村の村名を改称することになりました。村名改称の具体例として、村山市内では上野村が岩野村に、湯ノ沢村が湯沢村に、下長崎村が長嶋村へと改称することとなりました。

2.大石田町内での村名改称

 町内でも村名改称された村がありました。それは「深堀村」で、山辺町にも深堀村があり、戸数や人口、地理的な事情などにより町内の「深堀村」が「豊田村」と改称されました。確実な史料は残っていませんが、村名改称にあたっては、対象となった村々から新村名の希望を聞き、県で決定したようです。そうだとすれば、これまでの村名を変えなければならなくなったとき、なぜ「豊田村」としたのかについて、これも史料がなくはっきりしていませんが、おそらくは「深堀」以外に心のよりどころとなる代表的な地名が見当たらず、当時の村人にとって共通した願いであったことから名付けられた村名ではないか、と推測されます。

3.山辺町の深堀村と大石田町の深堀町との関係

 2つの深堀村の関係については、後藤嘉一著『私説 やまのべ風土記』という本の中で、大変興味深い伝説が収められています。
 今から400年以上前に、山形の城主であった最上義光が大石田の深堀の郷土の娘と恋仲になって男子が生まれ、成長して山辺の領主(2万石)となりましたが、城の南側の地名を「深堀」と称し、大石田の深堀から連れてきた家来36人を住まわせ、その人々が「深堀三十六人衆」と今でも呼ばれている旧家であると伝えています。
 それから300年後に、本家である大石田町の「深堀村」が改称されたことになり、もしこの伝説が真実だとすれば、奇しき縁ということにでもなるのでしょうか。

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