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おおいしだものがたり 第四十四話 大洪水で移転した海谷地区について

更新日:2016年3月25日

 現在、大石田町立歴史民俗資料館では、開館25周年記念特別展として「最上川文化資料展」を開催中です。その展示資料の中に江戸時代中期、今から約260年ほど前の谷地から清川までの最上川とその周辺が描かれた絵図を特別公開しています。

 この絵図は「最上川絵図」(尾花沢市 庄司吉弥氏所蔵)と呼ばれ、新庄藩が製作した絵図を写したものといわれています。これを見ると、現在では岩ヶ袋と鷹巣地区の間に位置している海谷地区が、絵図では岩ヶ袋と駒籠の間、川前の対岸に位置するように描かれています(写真参照。戸数は実際の10分の1以下)。その理由は、今から246年前の宝暦7年(1757年)の最上川大洪水により、当時の海谷村が一戸残らず全て流失したのが原因でした。その翌年に記録された「諸願覚留メ帳」(大石田町海谷 工藤光男氏所蔵)という記録の中に、はっきりと記されています。その記事部分を意訳してみると、次のようになります(月日と時刻は現在に直した)。

 宝暦7年6月14日から降り続いた雨により、同月16日から翌日にかけて60から90?ぐらいの水揚がりとなった。7月9日からまた雨が降り続いたが、前回ぐらいの洪水になるものと考え油断していたところ、7月11日午前8時ごろ、急遽洪水が押し寄せ、前代未聞の大洪水のため村中の家屋等が流失した。
 村人は、流れる家に上ったり木に登ったりして助けを待ち、近村から助け舟が出たので、着の身着のまま命ばかり助かり、上原という所に野宿した。
(「諸願覚留メ帳」『大石田町史資料編5』51ページによる)

と、梅雨末期の大洪水の様子が、具体的に記録されています。その後、村人たちは、またこのような災害に遭わないよう現在の場所に、元の家並みのとおりに村を移したと伝えられています。

 ところで、この大洪水の水かさはどれぐらいだったのでしょうか。上の記録には、大洪水時の水かさは記されていないので、大石田の記録を見ると、大庄屋高桑惣左衛門家のところで、「高さ五尺三寸余り」つまり160センチメートル余りの水かさがあったことがわかります。単純には比較できませんが、高桑惣左衛門家の屋敷地は町内では最も高場に位置し、そこから推定すると昭和42年の羽越水害よりも高いこととなり、未曾有の大洪水であったことがわかります。

 「最上川絵図」は、現在地に移転する前の海谷村の位置と様子が記されており、工藤家の史料とともに、伝承が史実であると証拠となるとても貴重な史料として注目されます。


「海谷」付近拡大図(左図) 「最上川絵図」(部分・右図)

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