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おおいしだものがたり 第五十六話 西光寺の唐金地蔵菩薩像(からかねじぞうぼさつぞう)について

更新日:2016年3月25日

 時宗の西光寺(町内四日町地内)の境内に、珍しい唐金(青銅)で鋳られた立派な地蔵菩薩坐像があります(写真参照)。この像は、像高(背丈)が102センチ、幅が76センチ、蓮弁台座が63センチ余りあり、面相は穏やかで右手には錫杖が元あったが、現在では欠失し、左手には宝珠を持つ僧形の堂々とした坐像です。
 制作年代は、今から約280年ほど前の享保6年(1721年)で、導師を西光寺14世の相阿教順和尚(当時の住職)がつとめ、施主は江戸大門通亀井町の最上屋喜兵衛らで、鋳物師は江戸住の田村丹波政富が担当したと、蓮弁台座に刻まれています。
 ところで、蓮弁台座には、導師や施主、鋳物師のほかに150人分の法名(戒名)が刻まれています。これについては、『大石田町史 上巻』の中で、「享保の飢饉のときの餓死者の霊をまつるために安置された」という伝説を紹介していますが、詳しく法名等を確認すると、禅宗系が22人、浄土宗系が40人、浄土真宗系が45人、時宗系が22人、日蓮宗系が5人、何宗かはっきりしない者が16人ありました。

 この内、「一蓮社良乗上人圓可大和尚」は乗船寺の第十世の和尚であり、「誓誉助給」ら4人の戒名は草刈家、「光誉照徹」ら2人の戒名は戸田家、「釈行西」ら3人の法名は須藤家というように餓死者への法名(戒名)ではなく、町内の旧家や寺院で、それ以前に亡くなられた方々及び寄進者自身の法名(戒名)が刻まれていたことがはっきりしました。

 加えて、「享保の飢饉」というのは、享保17年(1732年)に、主に畿内以西をおそった大飢饉をさしていると思われ、この地方では該当せず、四日町地域の年貢の状況から見ても、享保期には飢饉になるほどの大凶作は見られないことから、餓死者の霊をまつるとは考えられないことがわかりました。

 それでは、どのような意味があったのかについて考えてみますと、先ず一つは、この地蔵尊を建立するために寄進した人々の御先祖様を地蔵尊の蓮弁台座に刻むことにより、先祖供養をしており、次に寄進者自身の戒名を刻んだ者もあることから、現世と来世の二世の安楽を願ったとも考えられます。

 明治時代のはじめに、西光寺が全焼したために、この唐金地蔵菩薩像の由来に関する史料が全く残されていませんので、推定でしか記述することができませんでした。

唐金地蔵菩薩像台座画像

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