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おおいしだものがたり 第六十話 町内に一つしかない「夜念仏供養塔」について

更新日:2016年3月25日

 田沢地区の坊崎(どざき)地内に、「曽我五郎十郎の碑」(町登録文化財)という板碑のすぐ右側に、今から274年ほど前に立てられた「夜念仏供養塔」があります。

 夜念仏とは、一般に「よねぶつ」と呼ばれ、夜間に集まり、鉦を叩きながら念仏(回向)を唱えて村内を巡る行事です。その供養塔として享保16年(1731年)8月23日に造立された石造文化財で、町内ではこれしか確認されていない珍しいものです。


『夜念仏供養塔』遠景

 建立者は、碑面下部に6人の氏名が刻まれ、右側から井上庄八、井上八郎(八蔵力)、大山弥吉、笹原宇兵衛、佐藤久エ門、森庄之介の名前で、井上・笹原・森の苗字は現在でも田沢地区に見られ、井上庄八は檜沢村、笹原宇兵衛は田沢本郷、森庄之介と井上八郎も田沢村の住人と考えられます。ところが、大山と佐藤姓は見られず、佐藤姓は隣の横山地区にありますが、大山姓は海谷・岩ケ袋地内しか見られません。町外では村山市の楯岡や大久保、湯野沢地区、尾花沢市では広範に確認することができます。そのため、「大山弥吉」と「佐藤久エ門」については、その所在地や夜念仏の講(集団)との関わりがはっきりしません。夜念仏は村や集落単位に講がつくられることが多いといわれますが、この供養塔の建立者からみると、村の範囲を越えた集団であったことがわかります。


『夜念仏供養塔』建立者部分

 供養塔の場所は、横山村との村境近くで、西部街道の西側にあり、「曽我五郎十郎の碑」という板碑の右側に位置します。その地名は、「大庄屋 高桑宗左衛門覚書帳」という史料には「藤三池」と記録されていますが、これを仮に「とうざいけ」と読んだ場合、横山村の「地方差出帳」(山形大学附属図書館所蔵)によれば「塔在家」という地名が見られ、その所在地は明らかではないものの、坊崎の元字名が「坊在家」であったことと考え合わせてみると、たいへん興味深い場所であった可能性があります。

 また、富並村地内の「中山古道口」つまり田沢村との境近くに「夜念仏供養塔」が造立されていますが、造立年が享保14年(1729年)閏9月29日と、田沢の「夜念仏供養塔」の2年前に建てられたものであることがわかります。即断はできませんが、「夜念仏」の行事の広がりと関係しているかも知れず、しかも造立した日付が田沢の23日、富並の29日といわゆる「六斎日」(月の8日、14日、15日、23日、29日、30日の各日)にあたることも見逃せませんが、これと「六斎念仏」との関わりについては、関連史料は全く見つかっておらず今後の課題となっています。

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