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おおいしだものがたり 第九十五話 「最上川舟運の話」 その9.最上川の開削1

更新日:2015年3月25日

 最上川の輸送物資は、年と共に増大します。正徳3年(1713年)には、幕府と諸大名の廻米(かいまい・最上川を下し、大阪や江戸等に送る米)だけで約22万俵余りと記録されています。その他にも種々の輸送産物が沢山あります。ところが、最上川は、豊水期と渇水期の水量の差が激しく、それに難所も抱えているため、安全に安定した河川交通を確保することは困難な状況にありました。

1.山形城主最上義光、最上川三難所を開削する

 最上義光は谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏等を次々に滅ぼし、最上川の河西を攻略し、村山全域を手中に収め、自分の領国化を進めます。さらに最上地域から庄内へも進出する計略をたてます。その計略を実現するためには、最上川を掌握することが重要な要件となります。天正9年(1581年)、『北村山郡史 上巻』所収(「願行寺文書」天童市高擶)によると、次のように述べられています。
 「山形城主最上義光は、天童の頼久(よりひさ)との合戦に打ち勝ち、下郡は新庄まで心のままに従え、酒田船を通船させようと計画し、自分の国に石切の工匠がいなかったので、他国から工匠を雇い入れ、最上川の岩石を3年から4年の夏の期間をかけて開削させた。さらに、大石田と中野船町を舟往還のため、(河岸の)村立てを行った。」
 他国から招いた石切工匠とは誰なのか、またどれほどの費用を要したのか、何処をどのように開削したかは分かりません。今後その船道開削の実地調査が行われる予定だと聞きます。

2.酒田の豪商粕谷源次郎(かすやげんじろう)、山形まで舟を上す

 天正15年(1587年)、最上義光は酒田の豪商粕谷源次郎にも最上川の整備と山形までの舟を上すよう命じています。「御収納米を酒田湊へ下すために、請け負うよう御命令があったので、自分の舟4艘と合わせ10艘の船団を山形まで指し上させた。」(『最上川と舟運』所収 誉田慶恩「大名領国制の形成と最上川水運-粕谷家古記録」)
 粕谷はどこをどのように最上川補修作業をしたものかは分かりませんが、当時として、10艘の船団を山形まで上せた功績は大であったといえます。

3.斎藤伊予(いよ)、三難所の補修工事にあたる

 続いて、慶長11年(1606年)、最上家の収納米輸送奉行であった斎藤伊予が、さらに山形から下流の酒田までの調査を行い、三難所の補修工事や岩石の除去に当ったと言われています。(船町「阿部三右衛門記録」)。
 このように、二回三回と大改修が行われ、内陸と庄内を結ぶ輸送路として最上川は確立はしたが、安全度は充分ではなく、破船などの被害は後年に至るまで絶えませんでした。その後も、幾度か船持荷問屋などが自費普請によって船道の確保の努力がなされました。

執筆者 小山 義雄氏

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