終戦に伴う復員者など希望者36戸が、昭和20年10月18日に開墾地として現在の新山寺に入植してから、昨年で60周年を迎えました。入植の年は、宅地予定地を確保したものの住宅建設が困難だったので、冬季間はそれぞれの出身地等で過ごし、本格的な開墾を開始したのは、翌21年のことでした(以下「新山寺入植五十年記念誌『わが村は美しく』」による)。ここでは新山寺地区開拓の10年を紹介します。
昭和21年5月、最上川耕地区画整理組合から一軒あたり20アール(2反歩)の水田を借り受け、初めて稲の作付けが行われました。しかし、土壌は酸性が強い上、栄養分が乏しく満足な肥料も確保できなかったため、「実際に収穫した収量は2俵半程度で、米質も良くなかった。昭和22年から、西瓜や菜種、大豆などが作られた。」と、同地区の井上三郎氏は当時を振り返っています。住宅を建てて本格的な開墾が始まり、昭和21年11月には電気が通りました。
昭和22年7月1日には新山寺開拓者農事実行組合を設立したほか、この年に新山寺入植記念碑の建立が計画されました。翌昭和23年7月28日、山形県知事から新山寺開拓農業協同組合設立の認可を受け、地区全体が農業生産法人として役割を果たすことになりました。また、田沢小学校の冬季間の分教場として、新山寺分教場が11月から設置されました(児童数13名)。この年から開墾の記録があり、次のとおりです。
この間、昭和26年には、長峯地区を抽選で平等に配分。同年に赤石発電所(元、村山市袖崎地内にあった)と揚水場の買収に伴い、新山寺地区に白金地区、高玉地区(現在、村山市袖崎地内)が合併し、反別を増やそうという者もこれに加え、強力な単位組合として「最上川農業協同組合」を発足し、11月28日に山形県知事から認可されました。
その後、開田地の内10ヘクタールが高位置なため灌漑できずに畑となっていましたが、昭和29年からは灌漑できるようになり、昭和30年11月に新山寺地区から初の一等米を記録しました。
開拓地域(開拓農業協同組合)としては、昭和36年2月現在で、田沢(8戸)、岩ケ袋(12戸)、白鷺(40戸)、鷹巣(8戸)、川前(5戸)、駒籠(4戸)などがあります(山形県農地開拓課編『開拓地営農実績調査』による。白金地区は最上川農業協同組合に含まれる)。なお、白鷺地区開拓の歴史については、大石田町社会科教育研究会編『わたくしたちの郷土』に詳しく紹介されています。
組織名(略称):総務課 総務グループ
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