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大石田町
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おおいしだものがたり 第百四十五話 一栄と川水が芭蕉を送った弥蛇堂について

更新日:2016年3月25日

 「おくのほそ道」の旅で、芭蕉は大石田を訪れて三泊し、その間に歌仙の興行をして「さみだれを」の一巻を残した。
 そして、6月1日(陽暦7月17日)に大石田を立ち、猿羽根峠を越えて新庄に入った。曽良の日記に「○六月朔実日大石田を立辰刻一栄川水弥陀堂迄送ル」と大石田を立ったときのことを記している。つまり、大石田の俳人高野一栄と高桑川水は、芭蕉を弥陀堂まで送ったのであるが、その弥陀堂の所在を曽良は記していない。それでその所在の場所は謎のままで過ぎてきた。
 弥陀堂は何処にあったか、大石田より名木沢迄の間の芭蕉が通った道を辿り調べてみたが、その道筋に弥陀堂として存在した堂は見当たらなかった。しかし、その道筋にあって相応しい堂として存在しているのに井出地蔵堂があり、他に相応しい堂の存在を知ることができなかった。
 井出地蔵堂は、古くは十王堂と呼ばれている辻堂であったという。その堂に、最上川洪水のときに流れてきた木造の地蔵尊を祀ったと伝えられている。そして、その時期は延宝期ともいわれているが、『大石田惣町覚書』の寛文9年(1669年)の年に「導者銭三貫文出村中江大石田より合力、地蔵堂建替二付」としているのを見れば何れにしても、芭蕉「おくのほそ道」の旅のころには既に地蔵堂として存在していたと推考することができる。
 この堂は、大石田より来て井出の村並みに入るところにあり、ここで堂の西側に回り、やや段差のある高い台地縁上をゆき、深堀に通ずる道が分岐している。つまり、この堂は道が分かれるところにある堂である。
 曽良日記には、各地に存在する堂の記載があるが、その記載には「何処、何々のところに」などと堂が存在する場所を明記しているが、そうしたなかで所在を明記していない堂に「光堂迄釣雪送ル」がある。光堂は手向の村にある堂で、手向は羽黒の地内である。つまり同じ地内に存在するときは、曽良はその所在を改めて記すことをしなかったのではないかとみると、井出は大石田の枝郷で、いわば同一地内である。したがって、光堂と同じようにその所在を記すことはなかったと推考するとき、いよいよ、この地蔵堂は曽良の記した堂であるという考えが確かなものになってくるのである。
 さらに、近隣の信仰の篤い子育地蔵尊を祀る堂であるこの堂は、十王堂と称ばれたころから幾度か建替が行なわれいるようであるが、おそらくは、従前の造りを踏襲してきているのではと思えば、曽良がこの堂をみたとき「弥陀堂」と記したことはあり得ると思うのである。
 大石田の俳人、一栄と川水は、今宿迄川水が出て迎え、弥陀堂(地蔵堂)まで二人で送った。このように礼を尽くして、芭蕉を俳諧の師として迎え、教えを乞うたのであった。大石田の残された芭蕉真跡歌仙の一巻は、これに応えた芭蕉が、蕉風俳諧の研鑽に資するようにと、自ら筆を執って残した貴重な一巻で、芭蕉が、『おくのほそ道』の旅で「このたびの風流爰に至れり」と述べるに至った所産であったのである。


井出地蔵堂

執筆者 歴史民俗資料館 板垣氏

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