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大石田町
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おおいしだものがたり 第百四十二話 町内に残る郷倉

更新日:2016年3月25日

 昭和4年(1929年)アメリカでおきた金融恐慌の影響が日本に及び昭和5年(1930年)から昭和6年にかけて昭和恐慌がおこります。日本の農村は米と養蚕の繭の2大生産物で成り立っていましたが、物価の暴落で米価は2分の1、繭は3分の1まで下落し、昭和恐慌以来、東北の農村は貧窮していました。
 この中で、さらに追い打ちをかけてのが昭和9年(1934年)の東北地方全体の記録的な大凶作でした。『横山小学校百年誌』によれば、横山村は平年作に比べ58%の減収、亀井田村にいたっては60%の減収であったといいます。農村では学校へ弁当を持参できない欠食児童が増え、娘の身売りとして、奉公や町向上の女工として出て行きました。
 この年の大凶作におよび、今後の凶作への恒久的な対策として、皇室からの御下賜金を基とし、政府の補助金をあわせて全額助成で東北全域に郷倉(ごうぐら)が建設されました。郷倉とは、江戸時代、農村において凶作に備えた貯蔵穀倉のことです。また稲刈り前に飯米の欠乏した農家に貸し付け、これに対して低い利子籾で返済させる仕組みもとっていました。
 このとき補助金で建築された郷倉を恩賜郷倉(おんしごうぐら)と呼ばれています。また、このとき新設された郷倉は北村山地域で昭和9年から10年にかけて129棟がつくられ、大石田町においても地区ごとにつくられました。
 次年子の郷倉は480円の全額助成により建築されました。建築は村人の入札で行い、そのほか義務人夫を全戸に一日を課して、80人の人夫で建築しました。完成後に郷倉組合を作り、郷倉の管理運営を行いました。
 来迎寺の郷倉は2間に3間の木造2重張りで空間に砂が入れられてありました。
 この郷倉制度も戦後にはなくなったとみえ、来迎寺の郷倉は昭和28年(1953年)に解体されました。現在は駒籠と小菅の郷倉が残っています。駒籠は公民館の東隣に、小菅は阿弥陀堂境内にあります。


駒籠の郷倉


小菅の郷倉


恩賜郷倉の表札

執筆者 歴史民俗資料館 海藤

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