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おおいしだものがたり 第百四十話 ブラジル移民の父、鈴木貞次郎

更新日:2016年3月25日

ブラジル移民の父、鈴木貞次郎

 ブラジル移民の父といわれている鈴木貞次郎は大石田町の出身です。大石田北小学校の前庭にはその顕彰碑が建立されています。在伯山形県人会発足30周年の年、昭和58年(1983年)6月18日に建立されました。

貞次郎の功績

 貞次郎は明治12年(1879年)2月19日、大石田町大字海谷鈴木五助の4男として生まれました。
 明治38年(1905年)11月16日、27歳の時、横浜出帆の英国船グレーファーグ号に乗り、当初ペルーに向かいますが、船中で皇国移民会社代表の水野龍と知り合い、ブラジル移民導入を志す水野に共鳴し、行き先をブラジルに転向します。
 ブラジルに着いた貞次郎は、水野とともにサンパウロ州の有力者と日本移民導入について交渉します。そして、サンパウロ州のコーヒー園で日本移民の見本として一年間就労します。
 このことが認められて、明治40年(1907年)11月6日ブラジル移民契約が成立し、貞次郎もサンパウロ市のの移民収容所の書記となります。明治41年6月23日、第1回の日本契約移民船笠戸丸が800名を乗せてサントス港に着き、貞次郎が出迎えます。
 また、貞次郎は通訳として、日本移民の指導のかたわら自らも労働に従事し、借地農業を営む一方、自作農を目指して産業組合の創設に努力しました。
 そして、次々と渡伯する移民を迎え、各地に移民地つくりの世話をしました。
 やがて、貞次郎の努力によりブラジル移民は、借地農業から独立して自作農となり、野菜栽培や商工業者として経済基盤を固められるようになりました。

貞次郎の目的地はチリでしたが、当時日本からブラジルやチリへの便はなく、ペルー行の直行便に乗船していました。そのため、貞次郎と水野が船中で出会えたといえます。二人は船を乗り換えチリに入り、陸路アンデス山脈を越え、ブエノスアイレスから船でブラジルのサンパウロを目指しました。

子規とのつながり

 貞次郎は早稲田専門学校そして改称した早稲田大学の学生時代、号を虹原、ブラジルに渡ってから南樹としました。学生時代しばしば正岡子規を訪ねて、俳句と短歌の指導を受けました。また子規が病床にあるとき、貞次郎は桜の実(さくらんぼ)を送り、師の病苦を慰めています。その後山形に一時戻り、山形新聞の俳句選者としても活躍しています。

 移民の先駆として、コーヒー園経営、産業組合の創設、日伯新聞の編集、ブラジル各地の調査など、生涯にわたり移民のために奮闘し、移民と困苦を共にしました。昭和45年(1970年)9月8日に93歳で亡くなりました。


鈴木貞次郎顕彰碑

執筆者 歴史民俗資料館 海藤

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