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おおいしだものがたり 第二十八話 今宿地内の中世から近世初頭の板碑について

更新日:2016年3月25日

1.中世の大石田

 大石田の中世に遡る記録は数少なく、現在確認されている町内にある最古の資料は、慶長14年(1609年)に安食大和守が今宿善翁寺に奉納した浄土三部経(町指定)です。
 中世を特徴づけていることとして、戦国乱世の時代、ということがよくいわれます。そういう時代を反映してか、当時の人々がさまざまな供養や願いを込めて板碑(いたひ、板石塔婆)を建立することが行われました。町内には、室町時代から江戸時代初めのころの板碑(石造文化財)が、11基確認されています。そのうち、今宿地内(北今宿を含む)には、9基確認されています。

2.今宿地内の板碑の分布

 今宿地内の板碑の分布を見ると、北から、鷺ノ原地内に2基、鳥木沢地内に1基、的場地内の墓地内に1基、羽黒山の麓に2基、善翁寺前に基、薬師神社参道脇に1基、薬師神社境内に1基確認されています。
 建立された時代は、凝灰岩製で碑文が無く年代を確定する手がかりに乏しいものの、研究者によれば戦国時代から江戸時代初めのころが多いと見られています。また、薬師神社境内の板碑は、梵字(ぼんじ、インドのサンスクリット文字)で「地蔵」の文字が見られ地蔵菩薩に関わった供養(例えば、薬師神社の境内であることから流行病により亡くなった子供達(大人も含めて)の供養など)が推測されています。

3.今宿に板稗が多いことの意義

 今宿地内に板碑が多いということは、室町時代から江戸時代の初めにかけて、当時の人々がたくさん住んでいた地域であることが推測されています。
 この時代の今宿について、数多い板碑の分布や小屋館の存在などから、山形大学名誉教授故工藤定雄先生は、『大石田町史 上巻』の中で、「最上義光による軍道、最上川河岸としての物資給送上の機能がこの地に集中して、戦国末の宿駅的機能が丹生川・最上川合流点に集中したのではないか。今宿は一般的に古い時代の水陸駅に対する戦国期における今の宿駅、すなわち今宿ではないか。従って、大石田町は最上義光の北進中における、井出館の城下町と、大石田河岸場(水駅大石田)、さらに軍事上、経済的流通の拠点としての宿駅今宿の三者合致したもの」と推定しておられました。

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