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大石田町
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大石田町新町発足四十五周年記念特別寄稿「茂吉と大石田」

更新日:2016年3月25日

文人墨客の里として知られる大石田。終戦後の二年間をこの地で過ごした齋藤茂吉は、大石田の豊かな自然の中にその身をおき、その間、第十六歌集「白き山」を成しました。そして茂吉の詠んだ句は、大石田町の町民歌として広く親しまれています。

 最上川の上空にしてのこれるはいまだうつくしき虹の断片

平成12年9月、大石田町の新町発足45周年を記念し、特別に茂吉のご子息で随筆家の齋藤茂太氏より、茂吉と大石田の深い関わりについて寄稿いただきました。

「茂吉と大石田」

 私は昭和十八年十月、すでに戦局傾きかけた頃に結婚した。短期招集され、軍医教育をすまして慶応大学病院にいた。幸いに妻美智子は茂吉に愛された。茂吉にとってつかのまの「安楽」なひとときであったろう。その証拠に「安楽」と題した歌を詠んでいる。「かひがひしくズボンなど穿き立居する嫁をし見つつ涙ぐましも」など。

 昭和十九年初頭に私は応召し、家人は父の疎開荷物の梱包に明け暮れた。当時手に入り難かった茶箱、リンゴ箱、荒縄、荷札等々を茂吉は苦心惨憺(さんたん)して集めた。そして書物の一冊、一冊を惜しむようにして箱に入れた。荷物の主力は山形金瓶へ送り出したが、千葉県、広島県、秩父等へも送った。私は中国へも行き、敗戦の昭和二十年初め千葉県市川の国府台陸軍病院に復帰した。そして三月十日の東京大空襲には、救援隊として焼跡で数日治療に従事した。それやこれやで茂吉の疎開への決心が固まったようだ。かくて四月十日茂吉は山形金瓶へ発ち、妹なをの嫁ぎ先の蔵座敷を借りることになった。それからひと月半の五月二十五日、わが家と病院が全焼する。私は富士山の西麓、下部(しもべ)の分院に勤務していた。五月二十七日、患者五〇余名と身延(みのぶ)山へ参詣行軍。夜十一時電報が来た。「ヤケタミナブジアヲキカタ サイトウ」。それから荷の整理。一晩マンジリともせず、と日記に書いている。佐藤佐太郎氏が苦心して打ってくれた電報である。茂吉にも同文の電報が私より早くとヾいている。父は「致シ方ナイカラ荷物片付ヲシタ」と日記に書く。人間心理と行動にはあるていど似通ったところがあるとみえる。

 運命の八月十五日の敗戦が来、疎開先の長男が軍隊から復員してくることになり「物理的」に住めなくなった茂吉は、翌昭和二十一年、金瓶から最上川の沿岸の大石田町に移り、二月一日、二藤部兵右衛門方の離家に落着き、自らこの離れを聴禽書屋と名づけ、一年十一か月に及ぶ大石田生活が始まるのである。なぜ大石田町を選んだか、いろいろの理由はあろうが、その中に芭蕉という名が浮かんだであろうことが想像される。芭蕉と同じように最上川と「対決」してみたかったのかも知れぬ。しかし今となっては真相を確かめるわけにはいかない。多分父は「そんなことはどうでもよい」と言うに違いない。

 大石田に移って、父の最初の悩みは昭和二十二年が明けて財産税の申告だった。茂吉は「外套のまま部屋なかに立ちにけり財申告のことをおもへる」と詠んだ。

 茂吉は人一倍、人の意見をよくきくたちであったが、こと財産税に関しては日本中がはじめての経験であったから、その意見は百人百様、取り立てる側の役人すらどうしてよいか分からぬ始末だった。

秋田旅行茂吉画像

秋田旅行の際の齋藤茂吉 1947年6月 大石田愛宕神社前で、右側に結城哀草果、左側板垣家子夫と、
右手に羊傘、左手にバケツ(極楽)を持った齋藤茂吉

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