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おおいしだものがたり 第百二十九話 「最上川舟運の話」 その43.川船方役所の実務概要(3)

更新日:2016年3月25日

大名行列と最上川利用

 羽州街道は慶長年間以来、津軽、秋田など羽州諸藩の参勤交代の往還路として重要な街道であった。明和2年(1765年)7月、前老中酒井忠寄が庄内藩主に着任するため江戸を下る時には、大石田まで迎え船として、御召船2艘、五人乗のひらた大船8艘、四人乗のひらた中船54艘、三人乗のひらた小船1艘、二人乗の小船16艘、一人乗小船44艘、留舟8艘、合計133艘が動員されている(『大石田町誌』64ページ)。
 御召船とは、普通のひらた船(荷船)を殿様および側近の方々が乗るために、特別仕様として装飾を加えるなど特別に仕立てた船のことである。庄内と松山二藩は、参勤交代の通常ルートでは、清川と清水の間は最上川を利用していた。
 寛政頃には津軽・秋田・亀田・本荘・矢島・新庄・庄内・松山の諸大名が下向(国元に戻る)の場合、六田・宮崎・楯岡・本飯田・土生田・尾花沢・名木沢・舟形と継ぎ、ここで庄内・松山の二藩だけは本街道より別れて大蔵の清水に至り、船で狩川の清水まで下る習わしであった。参勤(江戸へ上る)の場合はその逆で、清水から船に乗り、大蔵の清水で上陸し、舟形宿に向かい、羽州街道に入るのが通例であった。
 文久元年(1735年)、本荘の六郷家が大石田河岸より乗船し、御召船として中船壱艘、小船壱艘にて下船、領国へ帰国された。御召船として仕立てた船は、通常より増運賃をとり、小船壱艘は通常の十分の一引きの安運賃でお送りした。(『大石田町史・史料編2』「最上川船方規矩」)
 このように、土生田より真っ直ぐ大石田に継ぎ、大石田河岸から舟で清川河岸に下ったり、清川から大石田まで上った時代もあった。
 寛文6年(1666年)、庄内藩酒井家が参勤のため、清川から最上川を遡り大石田に上陸した時の記録によれば、総人数が556人、馬が272匹、朱塗りの御召船が数十艘に分乗して回漕されたということである。(『山形県の歴史』)154ページ)。
 参勤交代は元禄年間になると、一層華美になったといわれ、幕府では藩財政緊縮の面からこれを制限して、享保3年(1718年)に、従者の人数は、20万石以下の大名の場合、総勢450人以下にすることを命じている。(『山形県史第二巻』625ページ)。

執筆者 小山 義雄氏

ひらたは舟編に帯

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