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おおいしだものがたり 第百七十八話 塩ノ沢館にかかわる伝承について(下)

更新日:2016年3月25日

 備中守が天正期以前に塩ノ沢館主としていたとは考えられないとなれば、伝承の塩ノ沢観音を奉安した備中守の先祖四位少将師興朝臣とは誰だろうか、この先祖とは頼泰を指すのではと推考するとき、年代的矛盾などもおよそ解消するのである。頼泰はさきにも述べたように、天童城主の座にあった。その系譜は、最上家系譜などに載っているが、それを見ると、天童城主には、左京大夫、治部大夫、修理大夫などの官名が与えられ、また四位少将の官位も、その系譜に散見するのである。頼泰には、四位少将、治部大夫と記している系譜もあるのでそうしたことを見ると頼泰は「朝臣」の呼称に相応ふさわしい地位にあり、かつ四位少将とも称ばれる地位にあったとみられ、備中守の先祖四位少将師興朝臣と伝えられる人の実像として、頼泰の像が浮かんでくる。つまり、塩ノ沢観音を祀ったのは頼泰であると考えれば、伝承にある備中守の「先祖」という表現も年代的にもおおよそ相当するのである。
 延沢能登守が最上方になり、義光が再び天童を攻めたとき、天童同盟軍には、これまでのような結束がなく、戦いの不利を覚った天童頼久は、夜のうちに一族をつれて宮城をさして落ちのびたという。このようにして天童を滅ぼした最上義光は、村山北部の地の処理をあるいは能登守に命じたのではなかったか。伝承の「能登守が火をかけて塩ノ沢館を攻め落とした」は、能登守が、あるいは、横山の地に入った備中守が、天童氏の痕跡を見事に一掃し消去し始末したことを後世に伝えようとしたのではなかったか。「火をかけて館も堂もすべて焼いた」ということには、天童氏のこの地における痕跡を見事に消し去った、すべてが消し去られたという思いが籠められていると思うのは深よみ過ぎるであろうか。
 能登守は、この地方では群を抜いて勇名を馳せた武将であった。そういうことで、この伝承に一役買うことになったかとも考えられるが、実際に事後処理に当たったという推考も捨てきれない。実に見事に天童の姿を消去し尽くしているのである。
 天童氏滅亡の時、大石田の井出館も義光勢に攻められ、落城したと伝えられているが、井出楯主大田外記は一戦を交えることなく、城門を開いたと推考される。塩ノ沢の場合もそれに近いようなことではなかったか。おおよそは推考の域になろうかとも思われるが、伝承に託されたことの解明がすすみ、この地の歴史がより明らかに豊かに語り伝えることができるようになればと思うのである。
 今では、符号することがかなり難しく、なかなかに符号し得ない伝承も残されているが、それを少しずつでも掘り起こし解明することができれば、往時の姿が現れてくるであろう。
 塩ノ沢館の伝承に出会って、伝承にはその地をめぐる当時の諸事情、社会情勢など複雑に絡んだなかで、ときの為政者あるいはこの地に住む人々が、知恵を出し、生みだしたものがあり、その伝えのなかに真実を深く秘めたものがあるということを痛感した。塩ノ沢館の伝承は、そうした類の伝承中の伝承であると思うのである。

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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