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大石田町
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おおいしだものがたり 第百八十話 おおいしだ記憶遺産2 今宿鷺ノ原射撃場の石碑

更新日:2016年3月25日

 今年は、太平洋戦争終戦70年目の年です。戦争に関連する記憶もまた、忘れてはならない、大石田町のたどってきた歴史です。今回は、大正時代から終戦まで、町内にあった軍事にかかわる施設を取り上げたいと思います。

 初めに、桜花台と呼ばれた現在の福祉会館がある台地は、大正4年(1915年)、当時の町が陸軍に寄付し、仙台工兵第二大隊の演習施設として、大石田廠舎(しょうしゃ※1)が誘致されました(写真1)。この工兵隊の大石田での演習は、特に最上川を利用した河川演習で、毎年夏には舟を並べ、板を渡し、人馬を通行させる渡河演習を一般公開していました。


(写真1)

 次に、大正13年(1924年)9月、今宿の鷺ノ原に鷺ノ原射撃場が設置されました。この射撃場は、在郷軍人会大石田町分会が、工兵隊の協力を得て設置したものです。射撃位置から圏的まで200メートルあり、圏的が3つ備えられていました。現在、この射撃場跡は畑地となっていますが、その中ほどに鷺ノ原射撃場の石碑が残されています(写真2)。


(写真2)

 高さ約3メートル、幅約35センチメートルの4角柱状の石碑には、それぞれ「御成婚記念 鷺の原射撃場」(※2)、「大正十三年九月構築 帝国在郷軍人会大石田町分会」、「工兵第二大隊 助工」、「設計者 陸軍工兵中尉 秋山覃」と刻まれています。また、鷺ノ原射撃場竣工記念に作られた杯が、歴史民俗資料館に収蔵されています(写真3)。


(写真3)

 杯の内側に「射撃場竣工記念 大石田町分会」外側に「大正十三年九月工兵第二大隊助工」とあり、当時、贈呈用に作られたものと考えられます。

 三つ目に、海谷地区東側の広大な畑地がある海谷原は、山形歩兵第三二連隊の演習場でした。『子どもにきかせる学校の百年(亀井田小学校百年誌)』によると、昼夜、砲撃やラッパの合図が響いていたそうです。しかし、昭和18年(1943年)ごろからこの海谷原が開墾されていきます(※3)。戦争の長期化による食料不足と出征による労働力不足のため、少年たちが食料増産隊として県内から集められ、栄養失調や病気のなか開墾や畑作業などに従事したことが語られています。また、終戦間際の昭和20年8月10日、この海谷原でも戦闘機(※4)が飛来し、機関銃掃射を受けたことも語られています。

 以上、日清・日露戦争を経て、大正時代に軍事施設が作られ、富国強兵にまい進する町の姿があります。一方、太平洋戦争末期には、少年たちが演習場をも開墾するなど、つらく厳しい戦時の町の姿があったことがわかります。

※1 廠舎 演習先で使用する簡易な宿舎。
※2 「御成婚記念」は、大正13年1月の昭和天皇と良子(ながこ)女王の結婚記念のこと。
※3 海谷原に亀井田・福原修練農場が設置され、開墾が行われた。『百年誌』、『山形県史拓殖編』812ページなどより。
※4 『百年誌』では、B29とあるが艦載機グラマンか。

執筆者 歴史民俗資料館 海藤

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