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大石田町
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おおいしだものがたり 第七十二話 井出楯主大田左仲と外記、そしてその子孫について

更新日:2016年3月25日

 町内井出地内に東北電力の変電所があり、この場所に「井出楯」と呼ばれる楯跡があります。現在でも、部分的に土塁(どるい)や空堀(からぼり)の跡を確認することができます。

 この楯は、今から500年ほど前の永正年間に、井出や大石田を治めていた大田左仲(おおたさちゅう)が約16年かけて築いた、といわれています。それと共に、左仲の菩提寺である普門寺は今から486年ほど前の永正17年(1520年)に、その前年である永正16年には浄願寺が開かれ、井出の八幡神社と愛宕町の愛宕神社も、大田左仲が遷宮(せんぐう)したと伝えられていることから、現在の大石田の集落の基礎は、楯主大田左仲時代にできたといわれています。大田左仲は、今から482年前の大永4年(1524年)9月28日に亡くなりました。(写真参照)なお、資料館では、9月17日(日曜)から特別展「大石田の文化財展」で、普門寺所蔵の町登録文化財「大田左仲位牌」を初公開する予定です。

 一方、大田左仲の息子と伝えられる大田外記(おおたげき)については、昔から悪役として評判が悪く、今から411年前の天正13年(1585年)に最上義光から攻め滅ぼされ、落城の日には、領民が餅をついて祝ったと伝えられています。その反面、四日町の二藤部家では、大田家の家老であったので、落城の日に餅をつかなかったと言い伝えられています。

 ところが、最近の研究では、大田外記は最上義光から滅ぼされず、むしろ最上義光の家臣となり、山野辺右衛門太夫義忠が2万石の領主として山野辺城に居を構えると、大田外記が山野辺家の家老となったと記録されている史料が発見されています。そして、最上家が今から384年前の元和8年(1622年)に改易されるとともに、山野辺家も大名預りとなり、初め岡山の池田家に、そして水戸の徳川家に預けられました陪臣(ばいしん)。水戸徳川家では、1万石で客分家老として取り立てられました。その際に、大田外記の子孫が、山野辺家の(殿様の直接の家来ではなく、山野辺家の家来)として「大石田」姓で仕え、「その祖は大石田の領主で、義忠が山野辺城主となった時、家老として仕えた」と記録にあります。

 水戸徳川家の客分家老に仕えた大石田家の中から、陸奥三春の秋田侯に仕えた者があり、初め大石田姓を名乗っていましたが、後に太田姓に代わり、その末裔太田藤左衛門が、先祖の法要を営むために来町したとされています。
※「大田」と「太田」の区別は、引用史料によります。

 これとは別に、広島の浅野家の支藩に仕えた大田家の一族もありました。浅野家の記録によれば、その先祖は「大石田外記」で、最上氏に仕えて番頭(ばんがしら)を勤め、その子伝兵衛直家は、家督を相続して者頭(ものがしら)を勤め、その子伝左衛門直友は苗字を「栗木(くりき)」と改め浪人で終わり、その子五郎左衛門は元禄14年(1701年)に浅野氏へ仕官しています。

 このように、大田外記は最上義光から滅ぼされなかったということがはっきりしました。


井出楯主大田左仲位牌(普門寺所蔵)

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