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おおいしだものがたり 第九話 河岸としての大石田 最上川舟運の発展と川船役所の設置

更新日:2016年3月25日

1.最上川舟運の発展

 江戸時代前期から大名領や幕府領の江戸・大坂廻米に伴う最上川舟運は行われていたが、今から330年ほど前の寛文年間ごろから最上川舟運が急速な発展をみることとなる。その大きなきっかけとなった出来事が、前回紹介した河村瑞賢親子が来町したことでした。瑞賢の西回り航路の整備により、幕府領の年貢米輸送の機軸として大石田の役割が位置づけられ、当時さかんになりつつあった商人荷物の増大といっしょになって、最上川舟運が発展することとなりました。


川船役所(「大石田河岸絵図」より)

2.最上川舟運制度のあらまし

 最上川舟運の基本的な制度について触れてみます。大石田の川船は、江戸初期からあったとみられているが、酒田船と商人荷物の輸送に関して今から350年ほど前の寛永末年から慶安年間にかけて、酒田船・大石田船が上り・下り片運送とし、大石田で中継ぎをしその上流は大石田船が運送する取決め(これを「古法」という)が成立しました。

 ところが、享保の改革の一環で、今から276年前の享保八年に、酒田と上郷に川船差配役を立てるとともに、大石田で中継ぎせず酒田船・大石田船がともに上り下りする上下入会運送(これを「新法」という)に改められるとともに、運賃も引き下げられました。

 この新法成立から24年後の延享四年に、制度改正が行われ、酒田船は上り荷物のみ、大石田船は下り荷物のみ運送する片運送(これを「新法改正」という)に改められ、これが明治5年まで続きました。

 江戸時代、川船の往復回数は、春彼岸から秋彼岸まで(通船期間)六往復が普通でした。この輸送秩序については、寛文末年に瑞賢の江戸廻米の整備により、最上川川下げの運送ルールが定まり、最初は幕府年貢米、次に大名・旗本の年貢米を運んだ後に、商人荷物を運搬できる定めでした。つまり、幕府や諸大名等の年貢米を運搬するかわりに、商人荷物の運搬が許可されていたのです。

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