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おおいしだものがたり 第百四十一話 茂吉散策の折に休んだ横山の稲荷神社

更新日:2016年3月25日

茂吉散策の折に休んだ横山の稲荷神社

 新庄戸沢藩では、領内を12郷に分け、各郷に代官を置いて郷の支配に当らせた。この12郷のうち、村山地方には上谷地郷・下谷地郷の2郷があって、横山・田沢・富並・山内・白鳥・上野・大槇などの村々は下谷地郷に属し、横山に陣屋(御代官支配所)が置かれ、代官が配置されていた。
 この下谷地郷代官になり、着任した江口利左衛門は、下谷地郷の総鎮守、陣屋の守り神として安永7年(1778年)に山城国紀伊の稲荷本社より、正一位稲荷大明神を奉遷した。これが横山の稲荷神社である。
 横山の陣屋は最上川に沿った横山の村並の丁度、横山と大石田を結ぶ船渡し場の上流、前面は道路で最上川を背にした位置にあった。稲荷神社は、この陣屋の前庭の一本松の傍、道路近くに鎮座されていた。
 時代が明治になって間もない明治4年には廃藩置県が行なわれ、横山の地は新庄県に属し、明治7年に横山小学校が、元新庄藩横山陣屋下役詰所の長屋を改修して開校させるという陣屋跡の変遷があった。
 その後、明治11年には郡制がしかれ、この地方は北村山郡となり、つづいて明治21年4月に市町村制が実施されるが、そのとき横山は大高根村横山となった。そして明治34年5月1日に大高根村より横山は田沢とともに分村し、横山村となったのである。
 その間、横山小学校は生徒数の増加に伴い、明治11年に校舎の新築が行なわれたが、明治32年には再度、新たに和風2階建、建坪98坪(二階部分65坪平屋部33坪)の校舎を元陣屋の跡に建てた。明治34年に発足した横山村は、元校舎つまり、元陣屋の長屋を役場としたのである。横山の稲荷神社は、このような陣屋の目まぐるしい変遷を見てきたのであった。
 そして、昭和になり太平洋戦争で敗戦国になった日本は、米国の軍政下に置かれることになった。日本を軍政下に置いた米国は、いろいろの政策のなかで、教育についての政策のひとつに軍国的教育、神国思想など徹底して排除否定するような措置があった。言うまでもなく横山小学校庭に祀られている稲荷神社の存在は不都合であると指摘された。そこで村のなかで相談し、浄栄寺門前、参道の北側に遷座したのであった。昭和23年にはまだ校庭に祀られていたというので遷座はその後間もない頃と思う。
 陣屋跡にあった横山小学校は、昭和38年に元横山中学校跡の新校舎に移り、この小学校跡つまり陣屋跡は今はJA倉庫の地として利用されている。そして稲荷神社についても、以前のあたりにということで、昭和48年に元陣屋跡、現JA倉庫の東南隅、最上川堤防を背後にした位置に再び移遷した。
 戦後、大石田に疎開していた齋藤茂吉は、昭和22年3月13日に大橋を渡って、横山の村に入り来迎寺まで散歩している。その日の日記に「午後神部歯科医院、ソレカラ横山村(途中稲荷神社ニテ休ム」と記している。この日の空は風はあるが晴れていた。前年大病で冬より春過ぎまで病臥し、その後も長い養生をした茂吉には、雪の積もった道を長い時間続けて歩くことはさぞ、大変なことであったろう。丁度、横山の村並の道の中ほどにある稲荷神社を見付け、そこで腰を下ろし、一休みしたのであった。
 このとき茂吉が休んだ稲荷神社は、その移遷のの経過を辿れば、まだ陣屋跡の横山小学校の校庭に祀られていた時であった。茂吉は、そこで一息ついて、また歩み、来迎寺の村までゆっくり歩いたことだろう。茂吉は雪道を散策してこの地を巡る3月の山々の壮麗を詠ったのであった。


元新庄藩横山陣屋


現在の稲荷神社

歌掛け軸画像

執筆者 歴史民俗資料館 板垣氏

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