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おおいしだものがたり 第百四十六話 惣町(そうまち)大石田

更新日:2016年3月25日

1.惣町大石田

 江戸時代270年間、大石田町の人々はどのように暮らしていただろうか。この時代の日常生活はなかなかわかりにくい。ここでは町指定文化財である「月並寄合記」の史料を使いながら当時の生活のようすをのべてみたい。
 江戸時代大石田町の中心は、現在の新町から四日町にいたる町並みであった。つまり最上川にそってできた町である。この通りから、横に入った横町、浄願寺・乗船寺の門前、尾花沢へ行くオバネカイドウである。川ぞいにあって船の出入りの多かった川端、そして私領大石田村の枝郷といわれる井出村とが一つになって大石田といわれてきた。
 さて大石田は何時頃できて、どのように組織と運営がなされていたのだろうか。戦国時代山形県の大名といえば最上義光である。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川方に味方し、功績として庄内までと秋田県の一部をふくむ山形県一の大名となった。そこで最上氏は自分の領国の交通整備に力をそそぎ、山形近くの船町から酒田まで船を通すため、川底の浅いところを掘るなどして大工事をおこなった。義光は最上川の中流である大石田が条件よい河岸(川港)であるとし、さらには大石田の町づくりをもおこなった。
 やがて最上家がほろんだ後、幕府により四つの村々に分割支配がおこなわれた。幕領は四日町・本町・新町の三カ村、大名領は柏倉付大石田村一カ村である。分割支配は町の人々にとって不便・不都合なことである。火事を防ぐにも、水路を造るにも、観音祭礼も町内で協力してやらなければならない。それでこれらの不便をなくし、かつての大石田のように一つの町として運営をおこなわなければならない。そこで出来たのが「惣町」という組織である。
 これは幕府の行政上の町でなく、あくまでも四カ村の自治的な組織である。さて惣町はどのように運営されたであろうか。四カ村の村々にはそれぞれに名主と組頭という村役人がいる。彼らは村の中で色々な村内の仕事をしている。この役人が四カ村であるから、惣町では合計8名の役人となり彼らによって惣町の運営がおこなわれた。彼ら8名は年10回ほどの会議(寄合)をもち、その具体的な執行は年番制(1年ごとの交替制)をとり、各村ごと2名の村役人が、その年度の行政をおこなった。たとえば宝暦10年は四日町が当番にあたり、名主半右衛門と組頭又左衛門の2名が惣町行政の指揮をとった。次年度になると私領大石田の大庄屋(私領では名主ではなく、この名称であった)宗左衛門と組頭三次郎の2名が交替する。なお正確な年番順序は不明である。寄り合いがおこなわれて決定したことや話し合いの重要なことは会議録に書留めておいた。この会議録が「寄合記」で文化財として町資料館に保管されている。
 このような組織ができ運営されるようになると経費が必要になってくる。この費用を出羽三山参詣に来る導者からの宿泊・乗船による利益をもってあてた。(出羽三山参詣導者は後述)


町寄合相談1件 宝暦13年

執筆者 清水 助太郎氏

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