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おおいしだものがたり 第三十九話 注目される室町時代の木橋の部材出土

更新日:2016年3月25日

 平成13年8月22日、本町の高桑幸助氏宅前の県道を、下水道工事のため掘削した際に、地下約2.4メートルから材木等が見つかりました(写真参照)。町教育委員会文化財係がその材木を確認したところ、1本は長さが170センチメートルで半分に割られ、左端にホゾが造られており、左側に桁が見られることから橋の部材と推定。もう1本は切断面のある木材で、垂直に打ち込まれており、木杭と考えられました。

 当初は江戸時代の木橋の部材と思われましたが、1.「橋本」という地名がここに架かっていた橋に由来すること、2.江戸中期以降は石橋が架けられていたこと、3.地下2.4メートルであれば江戸時代よりも古い可能性が高いことが研究者等から指摘されました。そこで、放射性炭素を用いた年代測定を実施することになりました。

 今年3月に測定結果が出され、木橋部材の方は1450年ごろ(1380年から1520年)、木杭は1530年ごろ(1460年から1600年)のものでした。この測定結果から、橋の部材は15世紀の中ごろ、室町時代の木橋(橋幅1間)のものであることがわかりました。また、木杭の方は、15世紀の半ばから関ヶ原の合戦(1600年)のころのものと考えられます。

 仮にこの2つの史料が同一の時代に存在したとすると、両史料の年代が重なる期間は、1460年から1520年までとなり、この年代の前半には応仁の乱、後半には井出の館主であった太田左仲(おおたさちゅう)が井出に館を築いたとされる永正年間(1504年から1520年)とも合います。

 重なり合う年代から見て、遅くとも太田左仲が大石田を整備した当初は間違いなくこの木橋が架けられていたことがわかり、発見地の地名「橋本」が、この木橋かそれ以前からついた地名であることがうかがわれます。また、もし仮に木橋の年代が重複年代の前半ごろのものとすれば、応仁の乱の前後に大石田に木橋があった(大石田の集落があった)ことになり、大石田の歴史を知る大きな手がかりとして、研究者から注目されています。

 これまで15世紀から16世紀前期の大石田の歴史は、寺社創建等の伝承のみで確実な史料がほとんどなく、具体的に理解するには史料不足でしたが、その時期にかかわる確実な史料として、この木橋の部材は大変貴重な文化財と考えられています。


ホゾのある部材(手前)・木杭(奥)

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