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おおいしだものがたり 第九十四話 「最上川舟運の話」 その8.中継河岸をめぐる争い

更新日:2016年3月25日

1.清水河岸、中継権を失う

 清水河岸の始まりは、大石田河岸より少々早く、室町時代後期の観応2年(1351年)といわれていますが、実際は山形初代の城主斯波家の一族満久が文明8年(1476年)清水に入部し、初代城主となって河岸を起こしたことが始まりとみるのが順当です。その後、清水大蔵大輔義親(しみずおおくらだゆうよしちか・山形城主最上義光の三男)の時代から上流部の大石田船と下流部の酒田船の中継河岸としての権限を有してきました。
 ところが、元和(げんな)8年(1622年)、山形城主最上家は御家騒動で幕府から取り潰されます。その後に、山形には鳥居忠政(とりいただまさ)、新庄に戸沢政盛(とざわまさもり)が入ってきます。両者の話し合いによって、清水が持っていた船中継権を10年間の期限で大石田に貸与することになったという話は前号で申した通りです。
 中継権を失った清水河岸は急激に衰微していきます。今一度中継権をと、その復活を求めて努力を重ねます。

2.清水河岸、中経権の復活をねらう

 幕府の(役人)伊丹播磨守(いたみはりまのかみ)が最上・庄内に下向(げこう)して最上川の船着場を調査してまわります。その折をうかがって、清水側ではかつてもっていた中継河岸の経緯を述べ、強く復権を願い出ます。新庄藩の強い意向も反映し、その願いはかなえられ、一時期再び清水河岸中継となりますが、また貸与関係が結ばされます。
 約束の10年の年季は、寛永13年(1636年)がその期限満了の時期になります。折悪しく寛永12年、約束を交わした一方の当事者である鳥居左京亮忠恒(とりいさきょうのすけただつね)が逝去します。その後任に保科肥後守正之(ほしなひごのかみまさゆき)が入部します。新庄藩では、急いで片岡杢之助(かたおかもくのすけ)、北条六右衛門(ほうじょうろくうえもん)の重臣を山形城主に遣わし、清水河岸の中継権復活を求めて談判訴願します。しかし、認められず逆に貸与年季が延長されてしまいます。(『大石田町誌史料編』・『大蔵村史』)

3.大石田河岸、中継権を確立する

 保科の後の松平大和守にも嘆願するが受け入れられませんでした。その後の山形城主の度重なる交代もあって、いつの間にか中継権は大石田に位置付けられ、確立されてしまいます。
 「中継権」とは酒田からの上り荷物は一旦大石田河岸で降ろし、大石田船に積み替えて上郷(上流部)に上す。上郷からの下し荷物はこれも一旦大石田河岸で降ろし、大石田船に積み替えて酒田へ下すという独占的な権限のことです。
 大石田河岸は大いに勢いづき、飛躍的に発展していく基を得ることになります。最上川舟運は徐々に組織化され、運行のやり方や取り決め(通船仕法・つうせんしほう)も確立されるようになっていきます。

執筆者 小山 義雄氏

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