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おおいしだものがたり 第百七十三話 河岸のまち大石田(上)

更新日:2016年3月25日

 大石田のまちだてについては、この広報に幾度も掲載されてきたが、このたびは大石田が四つの村に分割されるに至った経緯について、さらに述べることにする。
 大石田は江戸時代になぜ、4分割されることになったか。このことは平成6年(2003年)6月の町報の『おおいしだものがたり』に、分割された理由は「何といっても、大石田河岸としての重要性を領主側が重視した結果と考えられます」と述べている。確かに大石田が分割された一大要因は河岸のまちであったと言えるが、分割の状況をみるとき、江戸幕府体制の確立が背景にあり、各藩の国替えが頻繁に行われたことなどが、大石田の分割をもたらす上に大きく係わっていたのである。
 大石田は、天童を滅ぼし、上山以北の村山の地を手中にした最上義光によって、最上川舟運の一大河岸としてまちだてされたころは、ひとつの村とし存在していた。そして義光は、関ヶ原合戦後に最上、庄内、秋田の由利地方まで領有する57万石の大名となり、最上川舟運を山形より酒田まで一貫して支配し、慶長19年(1614年)には、清水河岸の権利を大石田に移して、大石田を最上川舟運の中心的河岸にしたのである。
 江戸幕府も三代将軍家光の代になるころには、その体制も整いつつあり、礎(いしずえ)は、いよいよ確立してきて、諸侯の服属も幕府を開いた当初のような状況から脱却しつつあったといえよう。
 元和8年(1622年)最上家が改易されたのは、丁度そのころであった。徳川幕府を開くにあたり、幕府は諸侯の配置には意を用いて行ったとみられる。つまり、この東北の地には、幕府にあっては留意しなければならない外様の大名の存在があり、その抑えにもなるようにと家康に非常に近く信頼があった義光を、この出羽の地の大名に封じた節がある。その最上家が改易となったので、幕府もその後をどうするかということには意を用いたことと思う。幕府体制がととのいつつあったとはいうもののまだ、その安定には時を要するころであった。
 幕府は、最上家改易後の山形城主に鳥居忠政を22万石で入部させた。このとき新庄城主には6万石で戸沢政盛を配した。この他、最上家の領地であった庄内には、徳川譜代の臣酒井家の当主、忠勝を配している。
 鳥居家も酒井家も徳川譜代の重臣であり、最上家の後を引継ぐことについては大方は諾うことだろうが、新庄には外様である戸沢政盛が、入ったのである。しかしこれは、よくみてみれば、政盛の正室は鳥居忠政の妹であって、両者は緊密な関係にあり、かつ酒井忠勝の室は鳥居忠政の娘であるという。つまりは、最上家の領地の出羽の地は、いわば鳥居家中心に固めているような具合で、これまでの最上家の役割を継いで、徳川幕府体制を護持し、東北地方の抑えとし備えたものとみることができる。
 この最上家の遺領を引継ぐに際して、大石田河岸のまちは、河岸であるが故にと思われる洗礼をうけたのであった。それは、初め大石田は新庄領とされていたが、山形に入部することになった鳥居家より、新庄藩には清水・大石田の二つの河岸があるので、河岸のある大石田に尾花沢を加えた2万石を、山形藩領に含められている谷地地方の2万石と交換して欲しいという要望があり、戸沢藩はそれに応えて、最上川左岸谷地地方と右岸尾花沢・大石田の地方を取替えるという、領地の交換が行われたのである。このことは、その後の支配事情に大きく係わることとなり、大石田が後年、四分割されるようになる端緒はこのときにあったといえる。

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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