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おおいしだものがたり 第百七十四話 河岸のまち大石田(中)

更新日:2016年3月25日

 最上家改易の後の大石田の支配は、このような経緯があって、山形鳥居藩領となった。ところが、寛永13年(1636年)に鳥居家に後継者がいないため、断絶・領地没収となる事態が起こったため、山形には三代将軍家光の異母兄弟である保科正之が20万石で入部した。このとき、鳥居領であった一部を江戸幕府は幕領とし収公した。大石田のうち四日町、つまり現在の乙番地の地域がこのときより幕府直轄領となり、大石田河岸のまちは2分割され支配されることになった。
 この保科家はその後間もない寛永20年(1643年)に会津に転封となり、そのあとに山形城に入ったのは、正保元年(1644年)禄高15万石の松平大和守である。山形領は禄高が小さくなり、その差の領地は、幕府に収公された。この収公されたなかに、大石田村のうち大石田本町、現在の丁番地が、幕府直轄領となって、代官松平清右衛門の扱いになったので、大石田村はこのときより3分割されたのである。松平大和守は、慶安元年(1648年)に姫路に転封となり、替わって山形城に入ったのは、松平下総守忠弘、禄高15万石で領地を引き継いでいる。この松平下総守は、寛文8年(1668年)に宇都宮に転封となったが、転封に際し山形藩領のうち、3万石を松平藩の飛地領つまり宇都宮領として転封した。さらに幕府は3万石を幕府直轄領として収公したので、山形藩領は9万石となった。
 そして松平下総守のあとに山形藩主として入部したのは、禄高9万石に減ぜられた奥平昌能である。これが山形藩が左遷の地となった始めであり、かつての大藩山形は、もはやとうに消失していたといえよう。
 いずれにしても、松平下総守が宇都宮転封に際して、3万石を東根村附宇都宮領として、これまでの山形藩領を分けたとき、この東根附領に大石田新町、現在の丙番地が含まれたので、これまでの山形領大石田が二つに分かれた。したがって、このときより大石田は4分轄されることになった。ちなみにこの東根附領は、寛保2年(1742年)に収公され、幕府直轄領になっている。そして山形藩はこの後も、国替えの対象藩となり頻繁に藩主の交替が行われたのである。
 大石田が4分轄され、支配されるようになった経緯のあらましはこのようであるが、徳川幕府も三代を経過し、その体制が整備されてその礎がいよいよ強固になってきたころには、幕府を開いた当時の緊張状態は緩和し、山形藩の存在意義は軽減したとみられ、そのことが、最上家改易のあとしばらくは徳川譜代、あるいは徳川家に縁の深い大名を配置したが、そうした配慮も不要になって、寛文8年(1668年)には、左遷の地となるに至ったのである。
 江戸幕府は、大藩最上家改易のあと収公した地より納められる米穀などの積み出しに、最上川舟運の大石田河岸の存在は大切であった。そのために幕府は早くより対処した。このことは、鳥居家断絶の後の山形藩主の入部のときに大石田の四日町を幕府直轄領とし、その後も、山形藩主転封、交替するときに次々に大石田を幕領として収公しており、また、徳川幕府に縁の深い山形藩主の領地替えをするときに、大石田河岸の一部を飛地領に認め転封するなどに現れ大石田河岸の扱いは複雑であった。

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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