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おおいしだものがたり 第百七十六話 塩ノ沢館にかかわる伝承について(上)

更新日:2016年3月25日

 塩ノ沢館については、古くより語りつがれてきた伝承がある。そのあらましは、塩ノ沢館の城主は日野備中守(以下備中守という)で、塩ノ沢観音は備中守の先祖四位少将師興朝臣が奉安し祀った。備中守は館の近くに曹源院を開基した。その法名を曹源院殿双峰厳公大居士という。山形城主最上義光が、天童を攻めて滅ぼしたとき、塩ノ沢館は最上方の延沢能登守(以下能登守という)に攻められ、火をかけられて館も、観音堂もすべて焼かれて落城した。後日、能登守は観音の冥罰をおそれ、もとのところに堂を建立し、罪を懺悔したというのが伝承のおおよそである。

 平成の世になって間もないころに、この地方の城館調査が行われたが、塩ノ沢館もその対象となり調査された。そして塩ノ沢館の規模、城館の構築状況などから備中守は館主ではあったろうが、築城者であるとするには疑問であるので、調査のまとめには取りあえず築城者は「不詳」としたのであった。

 この伝承には、築城者をはじめ幾つもの疑問がある。そのひとつには、備中守は果たしてこの塩ノ沢で能登守と戦うことがあっただろうか、ということである。まずこのことについてみれば、最上義光が天童城を攻め滅ぼした天正12年(1582年)には、義光の軍勢のなかに備中守の名があり、しかもそのころには備中守は山辺城の城番(註1)として城を預かっていたとみられ、関ヶ原合戦があった慶長5年(1600年)のあと、義光が57万石の太守になったとき、義光は4男義忠を山辺城主に配したが、備中守はそのときに山辺の城番を解かれ塩ノ沢に入ったのではないかとも考えられるが、『最上家中分限帳』(以下分限帳という)(註2)に「高千石内5百石横山の内」と備中守の禄高が記されているのを見れば、天童滅亡の後に横山の地を与えられて、塩ノ沢館主として入ったと推考するのである。

 一方、能登守は、始めは天童方であったが、後に最上方に味方した。つまり天童が落城し滅亡した天正12年(1584年)には、ともに最上勢のなかにいたのである。いずれにしても塩ノ沢にまだ在館していなかった備中守が、同じ勢力である能登守と存亡をかけて塩ノ沢で干戈を交えることはなかったと言えよう。

 備中守が塩ノ沢に入ったのは、義光が天童を滅ぼした後のことで、村山北部の地が天童の勢力下にあったころには備中守は塩ノ沢に館主として在館していなかったのである。そうであれば、大永2年(1522年)開山されたと伝えている塩沢山曹源院の開基が備中守であるとされているのは、その年代にかなり開きがあり、これをそのままには諾い難いのである。それで、開基者の法名という曹源院殿双峰厳公大居士は、備中守といわれているが果たしてそのとおりか、あるいは曹源院の開山年はいつであるのか、などのことが疑問となる。

註1 「天正十年(1582年)頃、日野備中守山野辺城主城番と推定」
(山形市見聞寺記録)(山辺町郷土史)(山辺町史 上)
註2 山形市史料編 最上氏関係史料

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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