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おおいしだものがたり 第百七十七話 塩ノ沢館にかかわる伝承について(中)

更新日:2016年3月25日

 塩ノ沢館主となった備中守の終焉をみると元和8年(1622年)に最上家は改易となり、その家臣は、各地に分散した。備中守も最上家を離れることになり、塩ノ沢を去ることになった。備中守の行先は「分限帳」に藤堂和泉守の家中に居ると記載されているが藤堂家の家臣には備中守の名は見当たらず、日野将監の名がある。おそらくは「分限帳」に記すとき、将監を備中守と取り違えて記したとみられるのである。それでは肝心の備中守はどこに行ったのかとなるが、伊達藩片倉家の家中に備中守の子息である日野十兵衛栄信が召出されており、備中守の系譜はそこに存続していたのである(註3)。そして、その一族の系譜には、最上家改易の後、備中守は禄を食むことなく高野山に籠ったと記している。つまり、長い間義光に仕え、しかもその側近にいて重用された備中守は、他家に禄を食むことを好しとしなかったのではなかったか。いずれにしても備中の終焉は、塩ノ沢を遠く離れた地であった。曹源院の開基が備中守であるとすれば、その時期は備中守が最上義光の家臣として活躍した年代で、塩ノ沢の地を知行したとき、あるいは義光が天童を滅ぼした後となろうが、そうであれば早くよりこの地に入ったとしても1580年代半ばのころ以降になる。
 曹源院の開山は先にも述べたが大永2年(1522年)と伝えられていて、さらには弘治7年(1557年)に曹源院7世大岑受椿が向川寺待真寮南窓下で書写したという奥書のある「正法眼蔵」が存在しているのをみれば、曹源院の開山は16世紀半ば以前であることは明らかで、備中守が塩ノ沢に入ったときには既に開山されて久しい時を経過していたのである。
 曹源院が、備中守が塩ノ沢に入る以前に既に開山され存在していたとなると、改めて開基者の法名曹源院殿双峰厳公大居士は、誰であろうか。『山形県の寺院内陸版』(大場真一編纂)に曹源院の項に付記があり、「開基曹源院殿双峰厳公居士は当時の天童藩二男」とある。それで、最上家の系譜や天童市史などによってみると、斯波兼頼の孫、頼直が天童に入り、その長男頼勝、二男頼泰はともに「天童」を称し、相継いで城主の座にあったとみられるが、この二男頼泰の法名が曹源院殿双峰厳公と記されている。そして系譜には治部大夫(大輔)天童殿などとも記されている。つまり曹源院を開基した「曹源院殿双峰厳公」は、天童二代(あるいは三代)城主頼泰の法名であった。
 頼泰は、頼勝のあとを継いで天童城主になったとみられるが、その座を頼基に譲って、自ら塩ノ沢に来て、最上川左岸北辺での天童勢力のかなめとして、この地に館を築き、曹源院を開基したのではなかったか。このように考えてみれば、これまで疑問にした館の築城者や曹源院の開基者についての謎も解けるのである。頼泰の没年が永享6年(1434年)という記録もあるが、もしそうであれば曹源院の開山は、備中守の年代を一世紀以上も遡るころになる。頼泰の没年については、その信憑性に疑問もあるといわれているが、兄頼勝が正長2年(1429年)逝去と系譜にあることや、鷹巣殿と称ばれた頼泰の末弟頼種が、鷹巣館を築き、嘉吉年間(1441年から1443年)に岩ヶ袋に熊野神社を勧請したという事跡があるなどから、15世紀前半は、頼泰の活躍した年代とみることができ、丁度このころに塩ノ沢館を築き、曹源院も開基したのではないか、と推考するのである。そして、塩ノ沢館は鷹巣館をもとに天童勢力北限の要地に相似たころに築かれた城館であったと推考するのである。

註3 新稿羽州最上家旧臣達の系譜 小野末三書

執筆者 歴史民俗資料館 板垣 一雄氏

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