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おおいしだものがたり 第百十三話 「最上川舟運の話」 その27.横山河岸(1)

更新日:2016年3月25日

横山河岸ができる以前の村の様子

 大石田の対岸にある横山は、本来河岸集落として発展した集落ではない。しかし、その地理的条件から、大石田に次いで船持、船頭および水主の多い村でもあった。横山村は新庄藩下谷地郷に属し、村高は枝村(来迎寺、新林、里、黒滝の4か村)を含めて約2,000石弱、人口約1,200人、戸数215戸となっている(『新庄領村鑑』)。
 下谷地郷とは、横山・田沢・富並・山ノ内・白鳥・大槙・岩野・稲下の八か村のことである。その横山には、下谷地郷八か村を統括する横山陣屋(新庄藩の代官所)があり、横山村の庄屋は単に横山村だけの庄屋出なく、八か村の大庄屋を兼ねるなど、下谷地郷の重要な地位ある村方であった。
 また、横山から田沢、富並をへて谷地にいたる西部街道があるが、これが谷地街道の幹線道路として、物資の運搬が盛んに行われた。横山は谷地方面への陸送の発着点であったことから、その運搬に従事する者もかなりいた。
 しかし、元禄時代に大きく発展をみた大石田河岸に比べ、横山河岸は、新庄領の船着場の1つではあったが、河岸としての発展はほとんど見られなかった。(『羽州山形歴史風土記』横山昭男著)

享保8年(1723年)、横山河岸が独立した河岸となる

 これまでの横山河岸は、長い間新庄藩清水河岸の附属河岸として存立してきていたが、この度、享保8年の舟運改革によって、横山河岸が独立し、その機能を発揮することになる。横山河岸独立以前の様子は以下のようであった。
 「横山村にもひらた船は少々ありましたが単なる船場で、横山河岸というものではありませんでした。ヨコヤマ村は新庄よりは六里余も離れた単なる一在郷村でした。それに比べ清水村は市や町等も整い、古来から河岸として栄えていました。清水河岸では二十艘のひらた船を持っていましたが、横山にある船数はその二十艘の中に含まれていました。横山にあるひらた船は、新庄領谷地郷弐万石の荷物ばかり専門に運んでいました。」(『大石田町誌・史料編』二藤部喜郎家文書。現代文に直したもの)
 当時横山には船持が1名から2名いるものの、船積み荷問屋もなく、実際の河岸としての機能は認められていなかった。河岸としての機能を備えるのは、元文5年(1740年)、最上川船の差配人に漆山村の小暮七左衛門が就任し、「横山船会所」を引請け、清水船20艘を横山船と認めさせ、横山の(大内)勘蔵がその清水船の世話を取り計らうようになってからであるという。
 そして、その頃から徐々に、横山河岸にも天領(幕府領)の城米や大名の私領米の最上川川下げが割り当てられるようになり、徐々に発展していくようになる。


ヘグリから横山を望む

執筆者 小山 義雄氏

ひらたは舟編に帯

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