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おおいしだものがたり 第百七十話 最上川舟遊について

更新日:2016年3月25日

 昭和25年(1950年)のころ、大石田で芭蕉が書き残したのではということで、世上を賑わした「最上川舟遊」とでもいうような文が発見された。
 しかし、これは間もなく、その文体や筆跡などから、芭蕉の書いたものではないということで決着している。今日、この文に記された内容を改めて見てみれば、大石田、最上川の当時の情景を語っていて、無下には捨て難いと思うので、最上川と大石田のかかわりかたを見る上にもその内容の幾つかを取り上げてみることにした。
 「けふや最上川に舟遊びを催さんとて」に始まる「最上川舟遊」ともいうような一文は、大石田の最上川であるから、味わうことができる風流のたのしみを語っているようである。
 この文は、おそらく、自ら蕉門二世と称し継いだという、芭蕉門の各務支考が起こした美濃派俳諧が、出羽の国にも浸透し、盛んになり、大石田俳諧が土屋只狂を中心に大いに興隆した明和より天明(1764年から1788年)のころに、当時の俳諧人交遊のなかでの産物ではと推考される。
 いずれにしても、江戸時代の大石田、最上川の風情に触れ述べている。そのいくつかをあげてみれば、(注1)
 「さて舟を乗出せば、岸は花を洗ふてすゞしく、水渺々と四方を眺望すれば、かしこは名におふ黒滝の山見へ渡りて、茂りにもるゝ滝の音幽か也。誠にかゝる閑寂の地を求め給へけん大徹和尚のむかしもさらなり。こなたの若葉ながら鶯の聲重なるもおかし」と舟を出してのぞむ黒滝山の方の景を記し、向川寺開山を偲び、舟中談笑のうち川前に至り、その風景を次のように述べている。
 「かくて酒興数邊の問答に舟はたちまち川前といふ所に着きぬ。されや此の地の風色たる、前に最上川を帯びて、岸に残れるつつじ山吹をひたし、岩根そぼたちて中ほどに木樵の通ふ道あり、山上は小立物舊りて、木の間に、ほこらなど見ゆるも繪に冩せるがごとし、しばらく舟中に眺望す。」
 最上川は川前に至り、川に迫る山の裾、そして張り出したハケツ山の岩根を巡り、大きく屈曲して流れる。暫くは、こうした川前の景を観賞し、さらに「兎角せしほどに山間より歸帆二つ三つ漕ぎ出れば」と帆かけ舟が、2艘、3艘、川に浮び来る景を述べている。
 この帆かけ舟が曳いてくれたので、大石田のまちなみを左手に見て過ぎ、たちまちに来迎寺瀬に着いた。そして、
 「爰の岸をのぼれば、阿彌陀堂の大藤(注2)とて名木のあるよし、いざ見ばや」
と岸に下りて、堂の建つ台地に上り、大藤を観賞し、木陰に休み、堂を詣でた。折柄、入相の鐘が聞こえてくる。藤の花は夕陽をうけてかがやき、一段と興を添えるなどと述べ、舟遊を終えている。
 舟運の栄えた時代に最上川に舟を浮べ、歓談をしながら、流域の情景を心ゆくまで観賞する。いわゆる「舟遊」が行われたのである。大石田の最上川は現代にも「舟遊」の記録を見る。
 つまり大正10年(1921年)や昭和初めのころに最上川に船を浮べて遊覧したという歴史がある。大石田の最上川は舟遊の川として、来迎寺瀬あたりより、川前の間をゆっくり巡る。周辺の景を楽しみ、黒滝の古刹を詣で、川前の入江に織りなす景を観賞し、観音に詣でるなどして悠々とした自然のなかに身をおき、時を過す。このような味わいをもつことができるのが、ここ大石田の最上川であることをこの一文が語ってくれているのである。

注1 「最上川舟遊」文については、歌誌「山塊」昭和24年9月号 板垣家子夫述による。
注2 阿弥陀堂の大藤は、昭和初期に伐採されている。

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