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大石田町
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おおいしだものがたり 第六十二話 最上川を渡った金比羅様(こんぴらさま)?

更新日:2016年3月25日

 横山上宿地内の農協倉庫の脇に稲荷神社があります。この神社の手前に、今から181年前の文政7年6月10日に建立された「金比羅大権現」の石碑があります。建立者は「下田健治」・「柿崎喜内」・「寺崎吉五郎」の3人で、下田は新庄藩下谷地郷代官下田尉作の子息、柿崎は横山陣屋役人(手代か)、寺崎は横山村の庄屋(名主)です。

 この石碑については、次のような伝説があります。「大石田にあった金比羅神社が洪水で流出し、横山に着いた。横山住民は金比羅神社を大切にしていたが、大石田からの返還希望で返すことになった。そこでこの碑を建て、お参りすることになった。」というものです。

 この伝説が成立するためには、文政7年以前に大石田に金比羅神社が建立されており、横山まで流れてくるような洪水がなければ成立しません。大石田に金比羅神社が創建された年号は、この碑が建立された翌年の文政8年8月10日で、それ以前に金比羅神社が建立された史料がなくはっきりしません。加えて、大洪水の記録は、前に紹介した宝暦7年(1757年)の大洪水(元の海谷村が全戸流出)以降では、寛政2年(1790年)5月の洪水が知られていますが、先月号で紹介した弁天社が寛政12年(1800年)までは確実に存在しており、その間に弁天社の信仰を捨て、金比羅神社が創建されているとはまず考えられません。以上のことから推察すると、この伝説は成立しない可能性が高いようです。

 この時期の大洪水の記録としては、この碑が建立された2ヶ月後の8月14日から始まる大洪水があります。その日は朝から雨降りで午前10時ごろから曇りとなり、その夜半から雨が降り出し強風で、15日明け方から雨風強く大嵐となりました。朧気川は朝から、最上川は昼から洪水で、川端通りが水上がりとなり、横山村では裏宿通りから曹源院の間を漕いで上り、水かさが人の乳まであり、金川が逆流し午後6時過ぎに4軒浸水。16日には水かさが増し遠藤市平家まで浸水し、小内文六家まで少し流れ、横山村中が大騒動となりました。午後2時ごろに増水が止まり、今宿村では、家と小屋が1軒ずつ流されたということです。

 この洪水は、寛政2年よりもひどく、宝暦7年に次ぐものでした。「16日の晩から徐々に水が引き始め、翌朝まで5尺ほど引いたが、それでも渡し船が出ないほどの増水。畑作物も水上がりのため被害が甚だしく、その後2、3日過ぎても下河原の畑から泥水が引かず、その中から大豆を引き上げたが、見るも無残な姿だった。この洪水で、最上川三難所の隼の瀬が押し埋まり、川船通行も困難になったため、幕府柴橋代官池田仙九郎と、尾花沢代官田口五郎左衛門の両代官が見分した。」と横山村の古文書にあります。

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