おおいしだものがたり 第百六十話 惣町(そうまち)大石田15
更新日:2016年3月25日
惣町大石田
8.雪と飢饉
(2)飢饉4
さて、土屋作兵衛とはどのような人であったのだろうか。先祖は戦国大名延沢氏の家臣で銀山の奉行であったといわれている。町指定文化財「浄願寺山門」は、土屋家三代目が延沢城とりこわしの時、延沢城裏門を運んで寄付したものであるという。この天明飢饉のときの作兵衛は五代目にあたり、名字帯刀を許された惣町一番の豪農であり、しかも村山地方を代表する俳人でもあった。
現在、町の西光寺にある芭蕉句碑「さみだれを」は五代目作兵衛の建てたものといわれている。当時は歌仙が町から姿を消したものといわれ、たまたま山形のある人物が所有していたのを知り、作兵衛が明和年間に何十年ぶりに大石田に買い戻し、それを持つことができた喜びを記念して、自分の庭に句碑を建てたといわれている。さらに明治になって現在地に移したものであるという。
土屋作兵衛は、時の老中水野出羽守の名前で白銀三枚の褒美をいただき、二藤部兵右衛門も紋付麻上下をいただいている。
対策としては3月18日、疫病が流行しているので病送りをすることとして町中休日とし、夜最上川原に集まり病人形を作り最上川にそれを流している。
4月25日には疫病退散五穀成就の祈祷をおこなった。横山曹源院隠居和尚と山伏10人、さらには来迎院が般若経を転読して、このための経費6貫文を重立衆が出している。
今まで記したものは主に町寄合記を資料として用いた。すなわち惣町における町運営は8名の町役人の合議制による運営であった。そのためには当然運営費が必要となり、その収支決算帳簿が「町目録」である。収入が大名通過による「はね銭」であり、宿泊問屋・人馬賃銭の一部をはね取って宿駅の入用にあてた。寛保3年の支出は62%が諸賃銭で21項目を占め、あかし・紙など物件費が19項目の12%を占める。
大石田は公認の参勤交代の宿場町でなく、尾花沢が公認の宿場であった。諸大名の中には大石田を通り、乗船する大名もおった。秋田の佐竹・津軽・戸沢などである。また、何らかの都合で大石田を通過した。いわば尾花沢の補助的役目を果たした。もう一つの帳簿は「導者目録」というものである。このことについては次回から書くようになるが、惣町運営のために二つの帳簿があったことを知っていただきたい。なお、舟運に関する帳簿はないが、舟運は川舟請負差配役制によるので、この場合の簿冊は個人・またはグループによる個人業務であったので惣町としての帳簿はなく、決算等の帳簿は幕府の川船役所に提出したものと考えられる。
執筆者 清水 助太郎氏
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