おおいしだものがたり 第百一話 「最上川舟運の話」 その15.三難所通船の安全対策
更新日:2016年3月25日
その1.破船したことの届出・報告の義務付け
「破船事故を起こしたこと、その時の事故の状況、例えば、米や荷物が水中に沈み、流失米が出たこと・船の傷み状況等をつぶさに報告をすること。また、濡れ米・船道具など見つけ次第拾い揚げ、そこに取り上げ、囲い置き、保管することなど、急いで代官所に知らせること。もし報告が遅れたり、隠し置き、後でそのことが分かった場合は、必ず罰を与えること」
(『村山市史資料、土生田古文書』)。
破船事故の仔細について、大急ぎ、荷主や所領の代官所に届出、報告することが義務付けられていました。
その2.近村(大淀、大槙他)の手助けの義務付け
「破船が起こった場合は、村中の人が出合い、米や荷物、船具などを拾い揚げ、囲い置き、番人を付け、大切に守ること。また、難所の他には助け舟を常駐させて置くこと」(明治3年「大淀村鑑帳」)とあります。
事故処理に要した人足の手当は、日中の場合170文、夜間は200文でした。他に駄賃・宿代・酒肴代・村役人や世話になった方々への謝礼などの支出がありました(『大石田町誌・史料編』)。
その3.瀬取(せどり)船を常駐させておく
天保14年(1843年)、隼ノ瀬に瀬取船3艘が新たに配備されています。(『北村山郡史』上巻)。その瀬取船(荷受け船)は3人乗り、200俵積みの小船です。元船の荷物を瀬取船に積み移し、船足を軽くして安全に下船あるいは上船するために用います。
この瀬取船の使用は、幕府の廻米を下す場合は無料で行い、大名米は安運賃で、商人荷物は定められた料金で行われます。
瀬取りした荷物は一旦境ノ目の船場に積み置き場を設け、そこには船頭や番人を居住させて保管していたといいます。瀬取船の造船経費は三難所を利用する船持商人の負担として差し出させたものでした。
その4.小滝・隼の両瀬には、1艘ずつの御用船と常駐の監視人を置く
三難所で起こる破船事故に機敏に対応するために、川通りの村々に常時の監視義務が課せられていました。「最上川川通絵図」(山形市大郷小蔵)には、隼村には「久三郎」「孫次郎」の二軒屋が記載されています。この人は常駐の番人であったといわれます。
安政3年(1856年)、富並村『歳時録』に次のような記録が残されています。
「幕府米や大名米を川下げする際、難破船が発生した場合、直ちに救援活動ができるように、文化13年(1816年)から御用船が配備された。ところが、安政3年12月28日、夕方より最上川が大水となり、さい氷が押し寄せ、御用船が押し流されてしまった。それで再び二艘の船を造ってくれるようお願いします。」
これは、富並村の庄屋が下谷地郷代官へ提出した願書です。当時、三ヶ瀬と隼には御用船が配備されていたことを示すものです。
執筆者 小山 義雄氏
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