おおいしだものがたり 第百四話 「最上川舟運の話」 その18.破船の発生と事故処理1
更新日:2015年3月25日
文化元年(1804年)、川前村下の相ケ瀬に於いて、破船事故が発生
この事故の例をもとに、事故処理の実態を述べることにする(天童、白田家文書)。
第1段階.事故現場の最寄りの村役人から、荷物を積み出した河岸役人へ「破船事故が発生したこと」を大至急知らせること。
文化元年3月26日、庄内の松山藩主酒井左衛門尉が支配している左沢領地の年貢米2605俵の最上川川下げを請け負う酒田船10艘の船団の内、1艘(清太郎船頭船)が、川前村下の地内にある相ケ瀬の二ノ瀬の大岩に激突し、破船沈没事故が発生している旨の報告書を大至急に送る。
報告者は駒込村の三役人(名主九之助・組頭半四郎・百姓代仁右衛門)
報告の宛先役人(寒河江付き積出口役人である郡中総代の楯北村名主太右衛門)
第2段階.破船事故を起こした船の船頭から、監督官庁である寒河江代官に対し、事故の経過の詳しい報告書が提出される。
(1)積荷の内容と内訳
- 庄内松山藩が左沢領地の年貢米を、江戸と大坂に送るための積み米であること。
- 積み米は2,605俵(内訳、廻米2,560俵・湊役人関係者の手当米45表)であること。
- 本楯河岸(寒河江)から積み出したものであること。
(2)破船に至るまでの経過
- 23日、本楯河岸で荷積みを終えて、そのままそこで一宿する。
- 24日、当日の朝、送り状を受け取り、九ツ時頃本楯河岸を出帆する。途中東風が強くなってきたため、谷地河岸に一宿し、天気の様子を見る。
- 25日、朝九ツ半時頃、谷地河岸を出帆し大石田迄乗り下げる。
- 26日、大石田川船方役所の検査を受ける。四ツ半時頃、大石田河岸を出帆する。間もなくまた、東風が強まってきたので、深堀村下で、一時下船を見合わせる。程なく風が和らいだので、また船を川前村下まで下す。
(3)破船の様子
- 川前村下の字相ケ瀬という場所には、一ノ瀬、二ノ瀬があり、平時でも難場とされる所であるが、今回は雪代水で増水し、水の勢いが強かったが、10艘の船団一同、気を引き締め、油断無く船を下すことを決断する。
- 9番船まで無事乗り下げる。破船した清太郎船は最後の10番船であった。
- 前の船に習って一ノ瀬は無事通過したが、特に難しい二ノ瀬では、組員一同一層気を引き締め、乗り下げたが、水勢に押し流され瀬に乗り揚げてしまった。
- 瀬から漸く離れることができたが、舳先は悉く破船し、水が押し入り沈船した。
- 船は駒込村地内の字内立と言う所まで流され、水中の大岩に乗り揚げ、ようやく停止した。
- 前を航行する船団に、大声で助けを求めたが、その声は届かなかった。
川前村下の瀬
執筆者 小山 義雄氏
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