おおいしだものがたり 第百八話 「最上川舟運の話」 その22.舟運の仕法(やり方)の変遷(2)
更新日:2016年3月25日
大石田中継の片運送
(4)最上川の船数
この時代は、最上川の舟運史上、大石田河岸が最も繁栄した時代とされ、なかんずく元禄16年(1703年)には大船(5人乗)136艘、中船(4人乗)128艘、小船(3人乗)28艘の計292艘(4人乗に平均して約319艘)にまで所持船が増えた。これは、元禄10年(1697年)の酒田の所持船大中小合わせて360艘(4人乗に平均して約327艘)と互角の勢いであったことを物語る。(『大石田町史 史料編2』「最上川船差配転変之姿」他)
同史料によると、大石田河岸の川船差配人は以下である。
差配人
笹原次郎左衛門・岡村十右衛門・岡村金右衛門・高桑金蔵
船差
阿孫子仁兵衛・富樫長三郎・笹原五郎左衛門・柴田仁兵衛
この時代は、江戸幕府が安定期に入り、寛永12年(1635年)には参勤交代の制度も確立し、江戸藩士や江戸市民の生活確保のため、米をはじめ生活物資の輸送がとみに賑わう時期になる。
寛文年間、江戸商人の正木半左衛門が出羽の米を江戸直送を請負ったり、河村瑞賢が幕命を受けて西廻航路の開発に乗り出すなど活発な動きのあったときで、その一環として、瑞賢親子の一行が調査として大石田にも来られている。
「片運送」違反事件
前述の通り、この時代の「通船定法」では、御廻米は別として
「商人諸荷物は酒田船にては積み請け下し申さず」
「商人諸荷物は大石田等上郷船にて積み受け下す」
との片運送の約定になっている。にも拘らず
「横山村の勘次郎外三人の者が、前々から川船差配人や酒田湊の船持・船頭と結託して酒田の戻り船を利用して、商人諸荷物の積み下げを行っていた。その上、商人方から密かに運賃を受け取り、違反行為を繰り返していた。」
この事件が露顕し、幕府の奉行所の評定方に提訴され、訴訟問題に発展している。訴訟人(原告)は大石田を筆頭に上郷の船持と船頭合わせて75人
船持訴訟人 代表 大石田本町 安太郎 船頭訴訟人 代表同本町 重助
相手(被告)
横山村船世話役 勘次郎 大石田村四日町同 又左衛門
寺津村船世話役 吉左衛門 楯西村船世話役 善蔵
その訴訟の結果を後日、江戸幕府の評定所に於いて言い渡されることになっていたが、資料欠如のために残念ながら分からない。(『大石田町史 史料編2』二藤部文書「諸用留」
虹ヶ丘からの最上川展望 昭和32年撮影 川端 佐藤輝夫氏 所蔵
執筆者 小山 義雄氏
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