おおいしだものがたり 第百十話 「最上川舟運の話」 その24.舟運の仕法(やり方)の変遷(4)
更新日:2016年3月25日
大石田中継河岸の独占的差配に対する「取り放ち」(廃止)運動の展開
本楯など新河岸の設置運動
大石田河岸の独占的な舟運差配に対し、上郷商人の不満がいよいよ高まってくる。大石田中継河岸を止めさせ、寺津(天童)・本楯(寒河江)・横山に新しい河岸の設置を認めてほしいという運動に発展していく。
(1)寒河江の藤内(船持商人)を中心として新河岸の設置を請願する。
正徳5年(1715年)、藤内・市之丞・権助の三人は寒河江の本楯に新河岸を設置することを寒河江代官拓殖兵太夫に請願する。新河岸を設置する条件は以下の通りである。
- 城米輸送の運賃を100俵に付き2俵、大石田より安く請負う。
これは、上郷の商人たちが、大石田独占に対する抗議の火ぶたを切ったものである。
即刻、巡見使が本楯の様子を見聞し、幕府に持ち帰って検討することを約束する。検討した結果の裁許は「新河岸相立不申」、即ち新河岸の設置は認められないということだった。
しかし、大石田船方に対し、藤内たちの願いと同額の運賃の値下げを命じられている。
それにも屈せず、享保6年(1721)2月、拓殖寒河江代官の許可を得て、藤内は再び「新河岸設置」を江戸に上り、幕府に出願した。
これは一大事と、大石田では船方重役の沼沢又左衛門(四日町)を江戸の遣わし、藤内と対峙させ、半年間にわたり大石田河岸の正当性を説得する活動に当らせた。そのことが功を奏して、以前と同様「新河岸相立不申」との決済を得た。同年閏7月6日、又左衛門は意気揚々と帰村した(『大石田町史史料編』「新河岸願之事」)
(2)寒河江の荷問屋善蔵は、酒田湊にある万蔵院に、村山地方にある幕府領・大名領に住む郡内の総ての商人と酒田の船持ち商人を集め、新河岸設置の決起集会を開く。大石田河岸の不当を暴くとともに、幕府への出訴を決議する。
- 大石田船方の独占請負を止めさせること。
- 大石田船方より低運賃での請け合いを約束すること。
- 今までの古い仕法(古法)を改め、新しいやり方(新法)に改正すること。
以上三点を重点に、より具体的な運動を展開することとした。
原告の代表に、漆山村の小暮七左衛門と成生村の奥山九郎兵衛を選出した。
運動資金として、善蔵自ら金100両を拠出すると共に、上郷の商人たちも、取扱い荷物1個に付き2文ずつを運動資金として差し出すことも決議した。
この決議を携えて、善蔵は漆山代官鈴木小右衛門に伺いをたて、江戸へ出府し、幕府勘定所に出願した。しかし、この願は受け入れられず、「新河岸の設置は認められず」「大石田の中継河岸は今まで通り」という裁許であった。
黒瀧地内より上流をのぞむ
執筆者 小山 義雄氏
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