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おおいしだものがたり 第百二話 「最上川舟運の話」 その16.三難所通船の安全対策

更新日:2016年3月25日

三難所を無事通過させるための安全対策(2)

その5.陸艫取(おかともどり)を置き、代行運転させる

 三難所を無事に乗り切るためには、船頭及び乗組員は船路の状況をしっかりと把握し、その状況を克服するのに見合った高度な技量が必要とされます。そこで三難所に差し掛かると難所運転の専門職である陸艫取と交代して運行することがしばしば行われます。
 嘉永2年(1849年)、大石田四ヶ村で陸艫取の鑑札を持っていた人は、四日町(庄助・長吉)、川端(五郎次・新助・市右衛門・与三郎・十兵衛)、上ノ台(五三郎)、東町(七蔵・伊吉)の10人でした。(『大石田町史 史料編三』)。
 それより先の元禄16年(1703年)、「川端の八と申す者」と「尾羽根街道の金と申す者」がおって、代々陸艫取頭となり、その道の名人として支配していたといいます(『大石田町誌』資料編)。

その6.「無事通貨」の報告を義務付ける

 寛政9年(1797年)、「一番積み船、幕府領・大名領米積船142艘、隼の瀬無事通過」したことを富並村庄屋寺崎永蔵が新庄領横山代官の安嶋涛右衛門に報告しています(『北村山郡史』上巻)。
 三難所を無事通過するたびごとに、毎回代官所に報告することが義務付けられていました。特に幕府の廻米(かいまい)を運ぶ際、三難所の通過にはことのほか神経を尖らせていました。

その7.無事難所を通過した船頭および船員には「御祝儀」を贈呈する

 明和2年(1765年)の「船上下通中小遣帳」(『大石田町史史料編』)や文政11年(1828年)の「通船上下御入用書上帳」(『大石田町歴史民俗資料館史料集九』)には、通船たびごとに「隼瀬通過の酒代」が計上されています。難所の最終通過地点である隼瀬を無事乗り切った船頭に対し、褒美として「御祝儀」をはずむ慣わしでした。

その8.酒飲み代行運転を撲滅する

 一方、難所に差し掛かる入口の碁点瀬では「立ち入りお神酒」が差し出され、それを口に含んで、安全を神に祈るような気持ちで運転に入る船方衆の慣習の姿が見えてきます。
 ところが、寛政2年(1790年)3月、大石田の船持衆が独占的に三難所の陸艫取株を持ち、船運送を行っていましたが、こともあろうに、「大酒を飲んで船を乗り下す者」「酒田船頭に酒代を要求する者」がいることが訴えられる事件が発生しています。
 陸艫取総代与助(大石田村)以下10名が連判をもって大石田四ヶ領の名主宛に詫状を提出し、再発防止を誓っています(『大石田町歴史民俗資料館史料集九』)。
 船荷請負の責任者にとって、高い技術をのぞむことは勿論、船頭の高潔な人格を養成することも大きな課題であったものと思われます。

執筆者 小山 義雄氏

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